この社長のパチンコ好きは、大学時代まで遡る。4年生の時、就職も内定していた。後は卒業という時に2単位足らずに留年。次の1年間は、それは、それはパチンコ三昧の日々を送っていた。
「大学の近くのパチンコ屋さんを根城にしていました。朝の10時から閉店まで12時間打ちっぱなしです。それこそ食事も摂らないで、缶コーヒー1本で打っていました。当時はブラボー10の全盛期。ストップボタンをどのタイミングで押すか、攻略方法を実践しながら独自に解析していました。するとかかるパターンがだんだん分かってきました。店からは『来るなとはいわないが、ブラボーは1日5回までにしてくれ』と懇願されたほどです。1300個終了ですから、5回では食えない。店は私が打った台のデータを見せて、月50万円ほど勝っているといっていました」
パチンコが終ると今度は、仲間が集まって朝方まで麻雀。10時になるとパチンコ店へ“出勤”。就職活動もしないで、パチンコと麻雀に明け暮れる1年間を過ごしていた。
物静かな風貌とは違って、腹巻に札束を忍ばせる学生ギャンブラーでもあった。
このまま、パチプロで食うことも真剣に考えていた。そんな時、前年に内定をもらった会社から「一度遊びに来ませんか」と電話が入る。出向くと入社内定者の懇親会会場だった。テーブルには自分の名札が用意されていた。自動車メーカーに就職することを希望していたが、販社の社長の人柄に惚れ込み、ディーラー系のセールスマンとして就職することになる。
「社長が『お客さんが嫌がる飛び込み営業はするな』というタイプの人でした。当時はプレリュードを扱っていたので、お客さんの方から買いに来てくれていました。それこそ、まだローンも組めないような若い人も買いにきていました。それでローンが組めるようにするのが仕事でしたね」
自動車ディーラーの定休日は、毎週水曜日だった。友人が紹介してくれた女性は、百貨店勤務で偶然にも水曜日が休みだった。休みが同じ曜日なのでデートもできる。こうして付き合いが始まったのが、遊技機販社の社長の娘さんだった。
ディーラーのセールスマン時代も毎日のようにパチンコを打っていた。するとある日「そんなにパチンコが好きなら、私の実家の仕事を手伝わない?」と誘われた。一人娘で跡継ぎがいなかった。結婚に向けて話はトントン拍子で進む。
「社長は『仕事は見て覚えろ』というタイプなので結婚が決まってから、休みの日には販社へ出社して、事務所でメーカーの人と話をしながら仕事を覚えていきました。昔はパチンコ機を作っていたことも初めて知りました」
結婚・披露宴はホールオーナーやメーカー、販社の業界関係者が多数招かれ盛大に行われた。招待客は新郎側が1に対して新婦側が5というような割合だった。業界の重鎮も招かれていたが、社名を聞いてもまったくピンと来なかった。
入社と同時に社長から通帳と印鑑を渡される。当時は業界も右肩上がりの時代。機械の整備と設置に追われる毎日で、寝る間もないほどの忙しさだった。ホール側の月の支払いが、1~2億円にもなる取引先もあった。小切手の山がただの紙切れに見えた。当時はまだ法人組織になっていなかった。銀行で小切手を現金化し、メーカーへの支払いは現金で行った。紙袋に詰めた大金を運ぶのが役目だった。
釘も覚えようと努力した。ところが、左利きはガラス枠を開けた時、非常に不利な体勢で叩かなければならない。そのために断念した。
「一般の人がもっと手軽にパチンコができて、パチンコ人口を増やすためには、メーカーには魅力があって遊べる機械を作りましょう、ホールには出玉を還元できる努力をしましょう、といえるのがホールとメーカーのパイプ役でもある販社の立場だと思います。ホールさんが困っていることを聞き出し、改善できるところは改善していく。まずは、話し合わないことには、ホールさんが困っていることも分かりません。そういうスタンスですから、ホールさんもメーカーさんもそれぞれの立場で好き勝手な意見を出し合っていただいたらいい。その中から妥協点を見つけ出すのがわれわれの役割だと思っています」
「機械屋がパチンコをしなくてどうする」が持論だ。だから、パチンコを打つことも仕事だと考えている。
毎日ホールでパチンコを打っているから見えてくるのが、お客さんの流れであり、お客さんの心理状況だ。好きこそ物の上手なり、という言葉があるように、今の仕事を天職だと思っている。

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