「店長、この店辞めないですよね」
「え、なんだ、お前。いきなり何の話だ」
「いや、なんとなくです。今日の店長はいつもと違う感じだし。そのう、なんて言ったらいいか、寂しそうにも見えるし。それにさっきの話だっていつもなら俺のこと怒鳴り飛ばしてそれでおしまいなのに、今日は何か特別な思いでもあるかのような言い方だったじゃないですか。俺の考え過ぎならいいですけど」
「がははは。お前は馬鹿か。何を勘違いしてるのかわからんが、俺はこの店を辞める理由もないしそのつもりもない。くだらないことを言っていないで早くホールに戻れ、このボケナスが」
「まったくボケナスはないだろ、ボケナスは」と聞こえないように小声で言った僕はしぶしぶ事務所を後にした。やっぱり考えすぎかと一度は思ったもののそれでも不安をぬぐい去ることはできなかった。
僕の心配をよそにそれからしばらくの間はいつも通りの毎日だった。連獅子ことカウンターの松本さんは相も変わらず人のうわさ話に花を咲かせ、たまに来る見た目が良さげな男を見つけては色気をふりまき、相手にされないと見るや鬼の形相でその客を冷たくあしらう。そしてまた次の獲物を虎視眈々と狙う。いったい彼女は職場を何と思っているんだろうか。
マイペース主義の関口さんは世の中の出来事などには目もくれず、ひたすら自分が男前であると思い込んでいる。この間もトイレに行ったら彼がいて、鏡を見ながら入念にヘアースタイルを整えていた。僕が用を足し終わって手を洗い、トイレから出ようとしてもまだ髪に櫛を入れている。自分の顔を上げたり下げたり横向いたり。究極のナルシストである関口さんは一日に何度もトイレに入る。そして一度入ったらなかなか出てこないのである。
うどん屋のサムちゃんとは日に何度も顔を合わす。独身の僕にとってあったかいうどんやおいなりさんをいつでも食べることができるのはありがたい。そして彼の若かりし頃の武勇伝は何度聞いても面白い。そんなときに甥っ子が作るうどんでもをすすろうと元やくざの世話役がきて、自分の現役時代の自慢話をかぶせてくる。なんとも微笑ましい光景だ。
僕を目の敵にしている子ガメは近頃妙におとなしい。その理由を他のお客さんに聞いてみると連日フィーバーにお金を突っ込み過ぎてとうとう貯金が底をつき、女房から三行半を突き付けられたらしい。仕事もせずにスナック勤めの女房の稼ぎだけをあてにして毎日ぱちんこに明け暮れている男にいいことなんかあるはずもない。僕は内心子ガメの不幸をほくそ笑む。
仁義なき肥満の木村君は最近体調が悪い。何を思い悩んでいるのか知らないが、頭に百円玉くらいの禿が三つもできた。円形脱毛症になるほどの悩みは何かと、ある晩彼の部屋を訪ね大丈夫かと聞いてみた。
「あっしはただいま恋愛中でやす」とその醜い顔を真っ赤にして片思いの彼女への思いを朝まで延々と語り続ける。どうやら最近入った十八歳のアルバイトにお熱をあげているらしい。僕の見立てでは恐らくその恋は成就しないと思うのだが彼の純情を無下にすることはできない。だからただうんうんと適当に相槌を打ち、朝まで付き合うことにした。
そしてある雨の日の朝。僕は今でもこの日を忘れることができないでいる。珍しく社長が朝から出勤してきた。早番のみんなは開店前のカセット掃除やレール拭きに精を出している。僕は五百円玉がしこたま入ったズタ袋を台車に乗せてその日の営業に必要な釣銭をせっせと両替機に詰め込んでいた。するとカウンターのほうから社長の一声。
「おおい、坂井君。みんなもちょっと来てねえ」
脳天のほぼ中心に響く甲高い社長の声でホールが鎮まる。
「どーもお。みんなおはよう。えぇっと、今日は大事な話があるからねえ。みんなよく聞いててねえ。来週の月曜日からこの店の店長は坂井君にやってもらうからねえ。新店舗のほうは田中君が嫌だっていうから群馬のほうから人を呼んだからねえ。それでいくからねえ」
一瞬の静寂。さわぎたてる者は誰もいなかった。僕は頭の整理がつかない。自分が店長になるなんていうことは聞いたことがないし、そんな希望を抱いたこともない。それにカルティエはどうなんだ。店長の名前がないじゃないか。誰かが「田中店長は」と小さな声で聞いた。
「ああ、彼は会社辞めるって言ってたよぉ。奥さんと一緒に辞めて違うお店で働くからって昨日引っ越ししたからねえ」
淡々と連絡事項を伝える社長の言葉が憎かった。当然色々なことが社長とカルティエの間であったのだろうが、残念の一言もない事務的な業務連絡に無性に腹が立ってきた。社長はそんな僕の気持なんか汲む様子もなく、事務所でこれからのことを話そう僕に伝えた。
社長室で何を話したのかほとんど覚えていない。もとよりそんな話に興味がなかったし今はカルティエのことで頭がいっぱいだった。僕は社長から解放されるや否や業務を放り出してカルティエの住むマンションへと走り出す。
「店長、うそだろ。辞めないって言ったじゃないか」
「いつでもそうだ、この会社は」
「なんでもある日突然物事が一瞬にして変わってしまう」
「こんなことがあっていいはずがない」
「店長、いるよな。いてくれよな」
途切れがちになる息をなるべく押し殺しながら、僕はそろりと部屋に入る。全速力で駆け付けたがカルティエの部屋はまったくのもぬけの殻だった。気のせいかそこにはカルティエと玲子さんのかすかなにおいがした。ほこり臭さの中にも今までここにふたりが住んでいたことを感じ取ることができる。しかし一方で二人はすでにここにはいないことをこの部屋は確実に伝えている。
「なんでなんだ、なんでいなくなっちゃうんだよ」
「出て行く前に一言くらい言ってくれたっていいじゃないか」
「ふざけんなよ。これから俺、どうしたらいいんだよ」
「俺、あんたからまだ教わってないこと沢山あるじゃん」
「仕事とか人生とか教えるっていったじゃん」
「あれ全部嘘なのかよ」
声を涸らして叫んでみても誰もいないこの部屋からは何も、なんの答も帰ってこない。悔しさと恨めしさと絶望がぐるぐると渦を巻いて僕を取り囲む全てを無くしてしまう。暗い渦の中心に一人ぼっちで立ちすくむ僕は前にもこんなことがあったっけ、とその当時を思い出す。
中学一年の確か秋ごろだったと思う。父親がいつにない笑顔で僕たち兄弟三人を訪ねてきた。僕が恐る恐る父の様子をうかがっていると、彼は威厳のある声でこういった。
「お前たちのお母さんは出て行ったよ」と。
僕は父からも母からも愛情をもらっていない。現実にはそうではないのかもしれないが、勝手にそう思って今まで生きてきた。だから僕は愛情ほしさに自分の周りにいる人たちに嫌われないよう慎重に生きてきた。でも人は僕が追いかければ追いかけるほど逃げていく。逃げられるのが嫌でまた追いかける。そして最後には嫌われる。そんなことを何回も繰り返して生きてきた僕は社会人になっても心を頑なに閉ざして生きてきた。カルティエはそんな僕の心を見抜いていた。
いつかこんなことを僕に言ったことがある。
「自分の心が痛い思いをしたことのない奴は人の心の痛みなんかわかる筈もない。別に苦労なんか無いにこしたことはないが、俺は苦労した分人の心がわかる。お前だってそうだろ。お前は人の心の痛みが分かる奴だよな」
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「ひでくん、だいじょうぶ?後悔してない?」
玲子は十年前と同じ言葉で秀樹の顔を覗き込む。秀樹はそれには答えなかった。彼女もそれ以上は追及しない。北国行きの各駅停車は乗客もまばらだった。
「みかん食べる?」
玲子はがさがさとボストンバッグの中をまさぐる。
「またあてのない旅になるな。玲子、ごめんな」
玲子は無言のまま寂しげな微笑みを浮かべながら、十年前に比べて厚くなった秀樹の手のひらにそっとみかんをのせた。
おわり

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