「おばさん好きです。いやそうじゃなくて、おばさん嫌いじゃないです。違う、あのう、そうじゃなくて玲子さん好きです。だから、あのう・・・逃げてもいいです。本当に」
もう何を言っているのか本人にも判断がつかなかった。秀樹は本能的に察知していた。今この一瞬を逃がしたら二度とこんなことは起こり得ないと。
秀樹が玲子に見せた必死の形相は、おそらく今まで生きてきた中で一番の輝きを放っていたかもしれない。お世辞にも男前とはいえない面相ではあるが、その 表情からは真剣さが見て取れた。
男の顔は整っているか否かではなく、魅力があるかどうかではなかろうか。男の魅力は物事に対して真剣に取り組んでいる時こそ輝きを増すのである。そんな秀樹を見た玲子は彼の両手をぎゅっと握りしめ、小声でそっとつぶやいた。
「後悔しない?」
「はい、絶対に玲子さんを幸せにしてみせます。だから俺と一緒に暮らしましょう。そして俺、出世して店長になって、金いっぱい稼いで、玲子さんに綺麗な指輪と洋服買って、それからええと、きれいなマンションに住んで、年に一度は旅行にも行ってええっとそれから、んぐんぐんぐ」
ほとんど支離滅裂なせりふを延々と続ける秀樹の唇をふっくらとした玲子の唇がふさいだ。
「ありがとう、ひでくん。ひでくんと一緒にいることができるならなんにもいらないから。あたしも一緒に働くから、だからあたしのそばを離れないで」
この世で一番甘いキスをした玲子の目には涙がとめどなく流れていた。
「店長!田中の奴がいません!」
翌日の朝店内はお盆をひっくり返したどころか、ちゃぶ台をひっくり返したような騒ぎであった。
玲子の夫であるこの店の店長は麻雀で大勝ちして意気揚々と明け方に部屋に戻ってきた。しかしいつも寝ているはずの玲子の姿が見当たらない。違和感を感じて部屋をぐるりと見渡すと玄関の下駄箱に真っ白い封筒がひっそりと申し訳なさそうに置いてあった。
今までお世話になりました。
貴方から受けたご恩に報いることができず本当にすみません。
寂しい思いをしていた私に貴方はいつも優しくしてくれましたね。
しかしそれでも私の心は抜け殻同然でした。
何度もあなたに対して心を寄せよう努力しました。
でも結局それはできずに終わりました。許してください。
今日、ほんのわずかなきっかけが私の心に一筋の光を当ててくれました。
私はこの一瞬を逃したらもう二度と幸せをつかむ機会はない。
そんな気がしたのです。言い出したのは私です。彼に罪はありません。
やっと本当の自分を取り戻せそうな気がするのです。
これからは自分という一人の人間を見つめながら生きてみようと思います。
私のことを少しでも思ってくださるのならどうか探さないでください。
厚かましいお願いであることは承知しています。
そして私の幸せを願ってくださるのであれば私のことは忘れてください。
追伸
あまり夜更かしをしないでくださいね。
煙草も控えめにしてごはんも三度三度食べてください。
玲子
白々しさを覚えながら手紙を読み終えた店長は言いようのない屈辱感に襲われた。
「いったい俺が何をしたんだ。俺のどこが不満なんだ、あいつは。しかも田中みたいなやつと駆け落ちなんかしやがって」
一方的な別れの宣告からは何も生まれない。今まで有頂天になってその日その日を適当に暮らしてきただけの人生。夢や希望があるわけでもない。玲子の存在は唯一の癒しだった。
彼は玲子が自分を愛していないことを知っていた。それでもいい、そばにいてくれればそれでもいいと本心から思っていた。いわば犠牲的な愛情の表しだった のだろう。自分が独善的に彼女を愛しても相手がこちらを振り向かなければその愛が成就することはない。彼が立ち直るためには長い、長い時間だけが唯一の解決 策なのかもしれない。
つづく

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これって、男は仕事をして女は家庭を守る
みたいな古~い価値観の考え方ですよね
まあ、昔の話なのでいいのかもしれませんが
女性は物事に真剣に取り組んでも魅力はあがらず、結局は顔が整ってないとダメってことですか? って突っ込まれそう
ついでに、添削
「店内はお盆をひっくり返したどころか、ちゃぶ台をひっくり返したような騒ぎであった」
お盆をひっくり返す=大雨の時に使います
ちゃぶ台をひっくり返す=権力者が突然意見を変える時などに使います
大騒ぎや混乱を表したいなら
「蜂の巣をつついたような」
という表現を使います
あと「違和感を感じた」は重複なので、
「違和感を覚えた」にしたほうがいい、
と言われる方が多いですね
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