「店長、153番台のお客さんが呼んでますけど」
カルティエが十年間の追憶と人生の悲哀にどっぷりと浸っていたメロウなひと時を僕の大きな声が現実へと呼び戻した、などということを僕自身知るはずもない。
「おう、坂井か」
「店長、早くしてくださいよ。ここんちはボッタクリだってお客さん大騒ぎなんです」
「誰だ、そんな本当のことを言うやつは。まったくデリカシーに欠ける奴だな。だいたいぱちんこ屋は儲けてナンボの商売だ。慈善事業やってんじゃあねえんだからそこらへん、きっちり解ってもらえ」
「店長、なに訳の分かんないこと言ってるんですか。とにかく今回は店長が出てこないと本当に収まりそうにないんですよ。お願いですから早くホールに出てきてくださいよ」
僕の表情が尋常でないのを見てとり、カルティエはようやくその重い腰を上げた。だいたいそういうことが主任の仕事なんだろ、とぶつぶつ言いながらカルティエはクレームの対応に取り掛かる。
「お客さん、どうしましたか」
「お前がここの店長か。どうしましたかじゃねえぞ、この野郎。全然回らねえじゃねえか。この穴に一発も入らねえんだぞ。百円入れても二百円入れても入らねえ。これじゃ詐欺と一緒だ。金返せ、金を!」
入らない、回らないとクレームをつけているのはたまにうちの店に来るけっこうなお歳のおじいさんだった。そのおじいさんは怒りのあまり全身をわなわなと震わせ、その口からかなりの量のつばを飛ばしながらカルティエに飛びかからんばかりの勢いだった。
「まあまあ、爺さんちょっと落ち着きなよ。そんなに興奮していたんじゃ話も出来ねえよ。だいたいどこら辺を狙って打ってたんだい。ちょっと打ってみなよ」
「何言ってやがんだ、この唐変木野郎。俺がどこをどうやって打とうと勝手だろう。だいたいだなあ、どこ打ったってそんなに変るもんじゃねえだろうがよ」
「ところが変るんだな、これが」
「なんでお前にそんなことわかる」
「まあ、他のお客さんには言えないけれど、実はこの台は昨日開けてあるんだよ。俺の腕に狂いはねえ。だから回らないはずは絶対にないよ。いいから言われたとおりにいっぺん打ってみなよ。だまされたと思ってさ」
そこまで言うならば、と急に従順になったそのお客さんは気を取り直し、椅子に座ると素直に玉をはじき始めた。
「やっぱりな。そんなとこ打ってたんじゃ一生回らねえよ」
カルティエは得意満面の笑顔で説明を続ける。
「そこじゃなくてほらここ、このぶっこみを狙って打つんだ。爺さんは手が震えるから両方の手でしっかりとハンドルを固定して、よおっく狙いを定めるんだよ」
「こうかい?」と半信半疑のお客さんはカルティエの言うとおりにハンドルをしっかりと握り玉を打ち始めた。するとどうであろう。いくらもたたないうちにその153番台は軽快な音を立てて回り始めたではないか。
「おおっ!まわるねえ、まわるよ。ぱちんこはやっぱりまわんなくちゃ面白くねえ。店長ありがとうよ」
さっきまで目くじら立てて怒りをあらわにしていたこのおじいさんは途端に子供のような屈託のない笑顔でそう言った。
僕はその一部始終をカルティエの背中越しからじっくりと見ていた。言葉づかいは悪いがその行為は愛情に満ち溢れていた様子だった。優しいんだなこの人は、と僕は感心する。そしてこんな接客は僕には到底できない、カルティエならではのものだなと改めて尊敬の目を向けた。
「ありがとうございました」
事務所に僕は戻り開口一番お礼を言った。
「坂井よ、おまえぱちんこ稼業で一番大切なもの、何か知ってるか」
突然の質問に僕は口ごもる。
「感情移入だよ、坂井。客が何を求めているのかを瞬時に察知し、それに応える。これはな、そう簡単にできるもんじゃねえ。俺たちがやってる仕事を単なる作業としてばかり考えていたらさっきみたいなことはできねえよ。だいいちあの台の釘は開けてなんかいやしねえからな。ただ嘘も方便て言うだろ。どうしたらお客さんが納得してくれるのかをその場その場で瞬時に考えて対応するのがプロの仕事だ。その仕事はな、自分の心がこもってねえと仕事とは言えねえ。それが感情移入よ。これは誰にでもできる芸当じゃねえ。でもな、ここを押さえとかないといつか客は愛想を尽かしてほかの店に行っちまうんだ。百人の客の要望をあらかじめ察知してそれに応えるのは無理かもしれねえ。だけど無理だからといってハナから諦めてたんじゃ進歩はねえよな。要するに無理を無理と思わねえことだ。わかるか、お前」
「はい、それはなんとなくわかります」
いつもならここまで立派な演説を語ったのちに『がはははは!』と高笑いをするのになぜか今日はそれがなかった。だからなのか、僕は何となく違和感を感じた。カルティエの様子がいつもと違うように見えた。それが何であるのかは分からないけれど、間違いなくいつものカルティエではない。
先日からの新規店舗に伴う人事異動の件でカルティエの去就が噂されていただけに余計に変な勘繰りをしてしまう。もし新規店への移動を受け入れられなくて、カルティエがこの会社を去るなんていうことが現実に起きようものなら、僕自身がこの店にいること自体が意味を持たない。そう考えると急に不安になってきた。
この店に入ってから仕事とは何か、人生とは何かといったことを彼は口を酸っぱくしながら僕に教えてくれた。がさつで横暴な態度や口の悪さは自分の良識の範疇を超えていたが、僕はそんなところさえも含めていつのまにかカルティエに魅かれている自分を感じていた。
人間は見てくれも大事なのだろうが、心の奥底からにじみ出てくる人間臭さも必要なのではないだろうか、と彼を見ていてそう思った。僕の知っている大人たちはそろいもそろって笑顔で接してくる。でも僕にはその笑顔が心の底から出てくる真の笑顔ではないことを察知してしまう。
カルティエはめったに笑わない。しかし彼のたたずまいは無言の愛情を僕に投げかける。
「それではだめだ」「そんなことでは一人前のぱちんこ屋とはいえない」「もっとしっかりやれ」「ここが我慢のしどころだ」彼は僕にそんな励ましの言葉たちを目で訴える。僕はその真心をしっかり受け止めようと努力をする。
思えば二十三年間生きてきて彼ほど僕に対して真剣に接してくれた人はいなかった。仲の良い友達と将来を真剣に語り合っても現実に戻ればすぐにその熱さを忘れる。大人たちの言うことは型にはまりすぎて窮屈で息が詰まる。人間のはしくれとして何とか生きていこうとして、もがいてもみる。だけどもがけばもがくほど世の中から遠ざかる自分がいた。言ってみればそんな世の中が嫌で僕はこのぱちんこ屋に入ったわけで、半ば自分の人生を放棄していた。
そして僕は表向きとは裏腹にいつも何かに飢えていた。今までそれが何なのかを考えてもその答えは出てこなかった。しかし思いもよらず、カルティエがそのヒントをくれた。大げさにいえば僕は彼から人間である以上人間らしく生きるべきだということを学んだ。そして建前ではなく本音で周りの人たちと接することが一番大切なのである。たとえ人さまから騙されたとしても自分は人さまを欺くような行為をしてはいけない、と。
僕はカルティエがどれほどの苦労をしたのかを実際には知らない。しかし彼の言動や行動を見る限り、それは大まかな察しが付く。苦労の量や質が問題ではなくその人がその苦労から何を学びとりそれを今どう活かすのかが大切なのではなかろうか。カルティエは僕たちにそう教えてくれているような気がしてならない。
つづく

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何もお知らせ無いね。
私だけの問題だったのか。
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