パチンコ日報

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兵どもの夢の後

大学時代は学生運動に明け暮れていた。革命の闘士としてその名を馳せ、東京で列車を転覆させ、逮捕される。



国立大学の工学部に身を置いていた。前科モノにまともな就職先はなかった。受け入れてくれたのがパチンコ店だった。当時は訳あり人間の巣窟だった。



表周りからはじめ、すぐに頭角を現し店長に上り詰める。オーナーからの信頼も厚かった。



やがて自分でもホールを持ちたくなり独立する。その時金融機関から借金するのに保証人になってくれたのがオーナーだった。



ホールも3店舗まで増やす。併せて販社も興す。



工学部出身。



販社もやっていた関係からメーカーになりたい、という気持ちがふつふつとこみ上げてくる。



長年業界に身を置いているのでメーカー、販社、ホールの関係は熟知している。ホールの立場なので、客がどういう機械を望み、どういう販売戦略を立てればホールが買ってくれるかも分かっていた。



その想いを実現するには、自分で機械を作って販売するしかない。そのためにはメーカーを立ち上げるしかなかった。



メーカーになるということは、開発部隊はもとより、工場設備から持たなければならない。



メーカーを立ち上げても機械を開発して、許可を取り、販売するまでに最低でも2~3年ぐらいはかかる。その間はまったく利益が出ない準備期間である。その間社員の給料は払い続けなければならない。



つまり、メーカーになるためには莫大な資金がかかる、ということだ。



メーカーになる夢を実現するためには、資金調達しなければならない。

金融機関から借り入れなどできる状況ではなかった。出資者を求めて奔走する。



最終的には旗艦店を売却して資金を調達する。



機械の開発も本格的に進む。保通協に持ち込む。難産の末、2~3機種が適合を受け、販売にこぎつけた。



販売戦略はあった。



大物コンサルとタッグを組み、限定販売方式を取る予定だったが、途中でコンサルは抜ける。



完全にはしごを外されてしまう。



機械は大手チェーンにも導入されたが、火が付くことはなかった。後は支払いに追われる日々で、やがて会社も回らなくなる。



その後待っているのは倒産の二文字だった。



スロットメーカーの数は一時期80社以上を超えたが、結局、日電協メーカーの上位が生き残れるぐらい。



ヒット機種を出すまで時間もかかるだろう。よほど本業がしっかりしているか、よほどの資金調達能力でもない限り、メーカーになるということは困難だ。



一発ヒット機種を出せば、借金もチャラになってそれでも手元にお金が残る。



そんな夢を追いかけながら、スロットメーカーが雨後の筍のように生まれたが、全財産を失うこともある。



メーカーを立ち上げること自体が一種のギャンブルである。

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