年齢は80歳を過ぎている。日本にいる時は大のパチンコファンだった。パラグアイに渡った頃、日系人向けのラジオから流れてきたのが間寛平の「ひらけ!チューリップ」だった。その歌を聴くたびに日本を思い出し、パチンコを打ちたいという気持ちがふつふつと湧いてきた。
この曲は1975年にリリースされ、100万枚のヒットを飛ばしたパチンコソングで、50代以上の人なら聞き覚えがあるはずだ。これほどヒットしたパチンコソングは後にも先にもない。
40年以上経って初めて帰国して、真っ先に向かったのがパチンコホールだった。夢にまで見ていたパチンコを打った感想は「こんなのパチンコじゃねえ。目が回るだけ」とガッカリしてしまった。
40年以上も前にパチンコを打っていた人からすれば、この40年間のパチンコの進化はまさに浦島太郎状態で受け止めたに違いないが、進化は「面白くない」の一言だった。
逆に、現役バリバリで打っていた頃のチューリップ台が打ちたいという気持ちがますます高まってきた。
もはやチューリップ台はパチンコ店から完全に消え去ってしまったのか、と思いながらも諦めきれなかった。それでチューリップ台がどこへ行けば打てるのかを探している過程で、7人目でやっとパチンコのことに詳しい業界人にたどり着いた。
そう、a-gonの手打ち式チューリップ台「昭和物語」が都内のホールには設置している。1カ月間は品川のホテルに滞在しているおじいさんを業界人が当該ホールまでアテンドすることになった。
改めて「ひらけ!チューリップ」の歌詞を読んでみると、業界人は考えさせられることが多い。

1975年当時は35個の小さな玉に望みをたくして、とあるように貸し玉料金は1玉3円時代である。負けが込んですでに800円も使っている。ポケットを探って出てきた100円硬貨に最後の夢を託している姿が描かれている。
せいぜい負けて1000円というイメージだ。
大学生の初任給は当時とさほど変わっていないのに、パチンコに使う金額は10倍以上になっている。
警察庁が求める遊技としてのパチンコは、最終的にはここまで戻らなければいけない、ということでもあろう。ハードランディングでは業界が一気に崩壊するために、警察としてもそこまではできないが、ソフトランディングで「ひらけ!チューリップ」の時代まで戻そうということか?
そんなことをこのエピソードから思い浮かべてしまった。

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