パチンコ日報

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貸し玉料金が1円だったのは昭和23年の1年間だけだった

パチンコ玉の貸し玉料金の変遷をおさらいしてみよう。

戦中禁止されていたパチンコが復活したのが昭和21年のことだった。

貸し玉料金が1円でスタートしたのが昭和23年、正村ゲージが登場した年でもあった。

1年後の昭和24年に2円、昭和47年に3円、昭和53年に現在の4円へと値上がりして行った。1円から4円に認めてもらうのに、業界の先人たちが陳情を重ねながら風営法を改正してもらい、その間30年もかかったこと分かる。

改めて振り返ると1円時代はわずか1年だったことになる。

先人たちの苦労が水泡に帰すかのように、すっかり1円が主流となった今、戦後の混乱期の貸し玉料金の時代まで逆戻りしていることでもある。

昭和23年とは、10歳の美空ひばりがデビューした年で、68歳になるビートたけしが生まれた年でもある。

行き過ぎた射幸性と共に高騰する遊技機価格が招いた結果、遊技人口は年々減り続け、4円を打てない客の受け皿として、業界は自ずと1円を選択してしまった。これは天が与えたまさに罰ゲームのようなものだ。

今は、4円で導入した新台を中古に回すことができるから、1円でもやってもやっていけるが、この先、遊技人口が減り続ければ、新台を購入できるホールも比例して少なくなれば、中古機のタマも少なくなり、1円そのものが運営できなくなる可能性だってある。

1円=中古機という考え方が業界人の常識でもあるが、この考え方を打破して、低貸し専門で新台をジャンジャン導入する方法で集客に成功しているホールも出てきてはいる。

低貸しで新台専門店なんて、どこも真似できないから、全国的に波及することもない。極一部でやっているから集客にも成功しているが、全国に普及したら共倒れになることは火を見るより明らかだ。

この30年以上あまりでパチンコ産業はゆでガエル状態で肥大化し過ぎた。それによって高コスト体質の業界になってしまっているが、1円や5スロでそれをペイしようとすること自体無理がある。

老舗メーカーを始め、周辺機器メーカーの倒産の顕在化がそれを物語っている。

日工組は4円復活の起爆剤としてちょいパチを発表したが、機械代はリユース程度でそんなに安くはない。

メーカーも組織が大きくなりすぎて、会社を維持するには機械代は安くは出来ない。

ここは図体が小さくて小回りの利くメーカーが、20万円程度の価格で4円を復権させる機械を開発してもらい、1パチから脱却できるきっかけづくりを期待したいところだ。

貸し玉料金が1円だった時代はわずか1年だったのだから。


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