「チラシ代を5000円安くしたところで、それでお客様が増えますか? それよりも1000円プラスしてお客様を10人でも増やしませんか?」と話すのはGGPの市原毅代表。
パチンコ営業が分かるチラシ屋を自認する市原代表は、チラシの「物語営業」を提唱する。
その心は「パチンコ営業やチラシはある意味、男女関係に近い。女性からするとどこにでもありふれているようなくどき文句や似たようなイベントでは嫌で、心に響かない。オリジナルの魂の言葉を入れなければならない」と力説する。
ではなぜ、パチンコ営業が分かるのか。
それには市原代表の業界歴を振り返れば分かり易い。
高知県で中・高一貫教育の進学校に進むも家庭が裕福ではなかったので、学費を自分で稼ぐために中学1年生の時から新聞配達をしていた。月額7万円は学費と自分の小遣いにしたが、「いつか金持ちになってやる」とギラギラした野心を持っていた。
新聞配達をしていたので、毎日株式欄を見るようになった。毎日下がっていたのが日活で75円まで下がっていた。当時1000株単位だったので、自分の小遣いの範囲で買えるのは100円未満の株。バイトで貯めた15万円を握り締め、野村證券で日活株を買った。中1の時だった。
日活株が1年後には300円に上がったときに売り、日本鋼管に乗り換えた。株の売買で儲けたおカネで家電を買うような中学生だった。その資金は新聞配達して自分の体で稼いだ。
一旗上げるためにはまず、東京へ出ることだった。高校を卒業すると東京の大学進学するも、最初から2年で中退する予定だった。
東京に出た時、最初に始めたバイトが都内のパチンコホールだった。時代は昭和から平成へ。アルマーニのスーツを着た店長が、当時は庶民の高嶺の花だったケータイを持っていた。
その姿を見て、金持ちになれるパチンコ業界も悪くない、と思うようになり始める。
大学2年で中退するとバイトで働いていたホールの正社員になる。店舗は2店舗しかなかった。将来性を考えてもっと大きいホール企業に転職することを決める。
その時、求人雑誌ビーイングで週休二日、初任給30万5000円のホール企業が目に飛び込んできた。
22歳で入社。そのホール企業の技術課の研究員試験にも合格する。
ここは釘のトラの穴とも恐れられ、統一ゲージの基本を叩き込まれた。毎日、釘と掃除に明け暮れた。それがすべてだった。
日中はつなぎを着て店舗の清掃。夜は新台入れ替えがあるホールへ出向き、6時間かけて指定の割数になるようにデータを揃える日々が1年2カ月続いた。
ベースが1違っても上司から怒鳴られるほどの厳しさがあった。
26歳で9店舗の営業を統括する営業課長に就任。
「全体平均で3万3000稼働だったものを4万5000稼働に引き上げたので、稼働を上げる自信だけはありました。有頂天になっていたことも事実です」
28歳の時には年収が1200万円に達していたが、あっさりと捨てる。
「自分が勉強しなかったので、子供にはネイティブな英語がしゃべられるようにした、と思っていました。英語を身に着ければ世界の60億人を相手に商売ができるからです。それにはアメリカンスクールに入れることが手っ取り早い。そうなると年収が2000万円は必要になる。そのためには自分がオーナーになるしかない。0.1%でも可能性があるのなら、それに賭けた」
こうして、28歳で独立してコンサル業を始める。5年以内にオーナーになる目標を掲げる。
最初はアドバイスでスタートしたが、オーナーからは店長派遣の要望が強く、常駐派遣型のコンサルがメインに。最盛期には83店舗へ店長派遣を行っていた。
稼働を上げる噂はやがて金融機関の耳にも届く。銀行が抱える不良債権の立て直しにも手腕を発揮し、銀行案件の再生も多数手がける。
好事魔多し。
5号機問題などが発生して、再生計画が従来通りに進まなくなる。やがて内部崩壊が始まり、コンサル会社は解散することになる。
そこで、次に始めたのがコンサルのできるチラシ屋だった。
「円周率をいえといっても3.14までしかいえない。鎌倉幕府はイイクニに作ろうで記憶したように物語は記憶に残る。チラシも起承転結の物語が必要になる。この手法で3万発のホールを半年で4万発まで稼働を上げました」
物語営業のサンプルチラシの一例がこれ。
ところで、子供の教育のためにも独立の道を選択したわけだが、その後子供はどうなったのか。
小2からアメリカンスクールに通い、中2でニューヨークのボーディングスクール(エリート養成の寄宿学校)に進み、ジョージア工科大学、と期待に見事に応えている。
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