パチンコ日報

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迷った時は原点回帰

大学生の時、親戚のパチンコ店でアルバイトを始める。当時は1ホール、1メーカーの機械で運営されていた時代でもあった。その時、メーカーの営業マンと懇意になると同時にそのメーカーの機械が好きになる。

大学では機械科を専攻していた。その関係から卒業後は名古屋本社の開発部に所属することができた。当時は入社試験もなく、比較的すんなり入ることができた。時は昭和46年。ホールの有線放送からは新人の小柳ルミ子の「私の城下町」が流れていた。

本社の開発部には5年ほど籍を置いていた。役モノはチューリップから、電動役モノへと移行する。初期の電役は基盤が安定しなかったため、故障も多かった。その修理のために全国各地のホール周りも経験する。故障しているので、ホールから叱られることは当然だが、開発の観点でホール回りをしていたので、地方のホールからは「本社の開発の人がわざわざ来てくれた」と逆に喜ばれることも多かった。

生まれ故郷の東京支店へ転勤となったのは27歳の時。営業マンとして新たなスタートを切る。10年後に支店長に昇格するが、その頃モヤモヤ感があった。ハネモノではヒット機があったが、セブン機でのヒットに恵まれなかったからだ。

各メーカーがセブン機で次々にヒットを飛ばす中、日工組メーカーの中で、セブン機でヒットが出たのは11番目のメーカーだった。昭和63年のことだった。オマケ付きチャッカーで出玉が安定していたことが人気の秘訣で、それまでの穴を埋めるかのようにシリーズ機は3年間のロングセラーとなった。 

メーカーへ20年間勤務した後、遊技機販社を興して独立した平成4年は、現金機からCR機へ移行する時期でもあった。確変がCR機に認められたことから、CR機の入れ替え需要が活発化する。独立したタイミングがよかった。

独立したら応援してくれる各メーカーの支店長がたくさんいた。ほぼ全メーカーの新台を扱えることができた。

メーカーの営業マンは自社の機械が良くても、悪くてもその機械しか売ることしかできないが、販社の立場ならホールが必要とする各メーカーの機械を吟味して販売できた。それが販社の存在価値でもあった。

独立から20年が経過した。パチンコ業界はかつて経験したことがないほど、4円パチンコの稼働が落ち込んでいる。新台を導入しても稼働が上がらなくなった。新台をメインで扱ってきた同社もその影響を受けることになる。

昔は10万台売れたらヒット機種といわれていましたが、今は3万台でヒットの時代。それだけ新台が売れずに厳しい時代が訪れた。

販社でコンスタントに新台を売り続けることが難しくなった。エンドユーザーが元気にならなければ、ホールも元気にならない。ホールが元気にならなければ、メーカーも販社も元気にならない。そんな業界の構図から問題点も見えてくる。

ユーザーが使う金額は同じなのに出玉が少なくなった。1時間で2~3万円が消えるような機械が主流になったため、ユーザーがどんどんいなくなった。セブン機一辺倒の弊害がパチンコの魅力を失わせた原因だ。

では、パチンコ業界はこれ以上遊技客を離反させないようにするには、どうすればいいのだろうか?

「セブン機一辺倒ではお客様の選択肢がありません。昔のヒコーキ機タイプを増やすことです。本当にパチンコを楽しみたいお客様はデジタルではなく、玉の動きを楽しめるメカニカルな機械です。セブン機が出た当初は設置比率を総台数の1/3、と自主規制していました。店内にはセブン機、ハネモノ、権利モノ、普通機、とバリエーションに溢れる機種構成になっていました。迷ったときには原点に戻ることも必要です」と語る。

以上、この記事は今から10年以上前に書いたものだが、状況はさらに悪化して、当該メーカーは、今は存在しない。危機感を持ちながらも業界が何一つ変わらないのが原因だ。迷った時は一旦原点に帰ってみる。

そんな悠長なことを言ってはいられないが、それ以外に打つ手はあるのか?


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