東京・東十条に新規オープンした「べラジオ」へ視察に行った時に、社長が玉運びに汗を流している姿を見て、べラジオが急成長する理由と繁盛店になる、と確信した、という内容だった。
ここは、やはり、玉運びのルーツを求めて、垣内社長に直接取材するのが早い。
アポを入れると快諾してもらえた。
東十条店の応援から帰ったばかりの垣内社長を本社に尋ねた。
べラジオの前身である「弁天センター」にアルバイトで入ったのが1999年。2000年にベラジオとして再スタートを切った時の初期メンバーの一人が26歳の垣内青年だった。
班長、副主任を3~4年経験した後、5年目で堺店の店長になる。これを皮切りに布施の店長を経験した後、営業本部長に。
そして、2007年に常務取締役として役員になる。
青天の霹靂は2009年10月に起きる。林田社長から社長の辞令をもらう。
「まさか、まさか、びっくりしました。常務からいきなり社長ですからね。社長なんて毛頭ありませんでした。スキルのある人は他にもいましたからね。ただ、ウィルの部分で任せられたのだと思います。林田キャップの分身という自負だけはありました」
林田イズムの体現者が垣内社長だったようで、物事の優先順位、価値観を徹底的に叩き込まれた。
「キャップも現場で汗をかく人でしたから、われわれはそれを受け継いでいるだけです。われわれも役職者時代からグランドオープン時に人が足りないといえば、現場に入っていました」
べラジオの基本姿勢は現場第一主義。すべての答えは現場にある。本部の人間も現場周りをすることは、社風でもある。
東京初進出は悲願でもあった。用地探しで2年かかった。立地と家賃が合う物件が東十条だった。何が何でも絶対成功させなければならない。その意気込みがドアコールだった。これは垣内社長も先頭に立って行った。
「東十条地域は下町情緒溢れる町で、ドアコールに行った時に、おばあちゃんからたい焼きやジュースを頂きました。地元の人からも『こんな元気なパチンコ屋見たことがない。絶対行くわ』という声もたくさん頂き、自分自身の自信にもつながった。関西人も関東人も同じ人間という部分で、共感する店を作ったら成功する、と実感しました」
ところで、林田イズムの優先順位とは何か?
「1番は人です。数字や業績のことでキャップから叱られたことはありませんが、人間関係ではしょっちゅう怒られました。驕りと慢心を一番嫌います。役職が上がると現場との関わりが薄くなって行くことを嫌います。現場との信頼関係が一番うるさいです。部下との飲み会でも、役職者から酒を注ぎに行かないと怒られました。本部は1円の利益も生まない。すべては現場にある、という意味はここなんです」
グランドオープン時に玉箱を運んでいたのは垣内社長だけでなく、専務や営業本部長、人事部長も汗を流していた。
「オープンまで社員は連日夜遅くまで準備に取り掛かっていたので睡眠不足だった。疲れ切っている姿では本番で笑顔も出ない。そこで我々が現場に入るから、と1日休めるようにしたわけです。1日休んだら表情も元気さを取り戻しました」
これで、社長自らも現場で汗を流すべラジオの社風が分かってきた。利益を作る現場が気持ちよく働ける環境づくりを率先して行う。
べラジオは役員に一切身内を入れない徹底ぶりから、将来の夢を「役員」とはっきり口に出す店長や社員が多い、という。
2016年4月から新卒採用も開始する。
東十条店で21店舗目となったべラジオ。2年後の3月までに30店舗を目指す。

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