メダルゲームは、景品がもらえるわけでもなければ、メダルを現金に換えられるわけでもない。いくら増やしても、現実的な見返りは存在しない。にもかかわらず、老若男女がこのメダルを求めて夢中になる光景は、ある種の不思議さを感じさせる。
パチンコ業界同様、ゲーセン業界は逆風の中にある。クレーンゲームこそ人気を集めてはいるが、1985年に全国で2万6000店あったゲーセンは、2021年にはわずか3900店にまで減少している。約6分の1である。主力であったアーケード機は、家庭用ゲーム機やスマホゲームの登場によって、その役割を終えつつある。
そんな中、今回取材対象となったふじみ野市のゲーセンは異彩を放っている。メダルゲームを主体に据え、特に1998年製のひと昔前のスロット機を目当てに遠方から客が訪れる。現行の最新機では味わえない“古さ”が、むしろノスタルジーとして支持されているのである。
メダルゲームの最大の特徴は、ひとつのメダルで多種多様なゲームが楽しめる点にある。ある9歳の男の子は「スロットは当たったら大量に増えて、他のゲームができるから楽しい」と無邪気に話す。メダルという「通貨」を増やすことで遊びの幅が広がるという感覚は、射幸心をあおるものではなく、純粋なゲームとしての魅力を持っている。
さらに、獲得したメダルは貯メダルができる。次回来店時に引き出して遊ぶことできるのでおカネもかからない。中には111万枚ものメダルを貯め込んでいる猛者もおり、その存在は店内に掲げられた獲得ランキング表で明らかになる。ランキング上位に名前を刻むことが、ここに自分がいた証となり、誰かに認識されるきっかけともなる。
その証を守るため、愛知県から泊りがけで通う者もいる。ランキングの維持は、単なる数字の問題ではない。自己承認欲求を満たし、社会の中で居場所を持つことへの願望が、こうした行動を生んでいるのだろう。
ある国家公務員の男性はこう語る。
「仕事では意味のあることをしているので、プライベートでは意味のないことをしていたい。仕事で嫌なことがあっても、ここで遊んでいれば気がまぎれる」
生産性を求められる日常とは真逆の場所に身を置くことで、人は精神のバランスを取ろうとする。意味のなさが、逆に意味を持つという矛盾の中に、遊びの本質がある。
また、30年間同じゲームに興じる主婦も登場した。
彼女は「これがあるから来ている。息子が結婚して一人ぼっちになり、ノイローゼになって鬱状態にもなった。でも、子どもは離れていくものだと気づいて、ここで遊んでいるだけで元気になれる」と話す。
彼女にとってメダルゲームは、子供と遊んだ過去の自分を慰め、新たな自分を保つための儀式のようなものである。
人はなぜ無意味な遊びに熱中するのか。その問いに対する答えは、十人十色。そこには共通して「救い」が存在する。現実のしがらみから解放される時間、自分を見失わずに済む場所、誰かと関わる小さなきっかけ。それらが集約された空間がここにはある。
「遊びの力で心を元気に」
これはパチンコ業界が掲げるパーパスだ。しかし、今のパチンコはもはや「遊び」ではなく、「金儲けの道具」と化している。対照的に、メダルゲームには景品も換金性もない。ただ、遊ぶためのメダルがあるだけである。そこには、「遊びとは何か」という根源的な問いへの一つの答えが隠されている。
パチンコ業界がいま最も問われているのは、「遊び」としての原点をどう取り戻すかである。かつてパチンコは娯楽であり、時間を忘れて楽しめる空間だった。しかし現在は、換金性と射幸心に依存しすぎた結果、「遊び」ではなく「金儲けの手段」としての色合いを強めてしまった。
今後業界が再生していくには、金銭的リターンではなく、心の充足を提供する方向への転換が必要である。時間制や定額制といった仕組みによる“非換金”遊技の導入、地域とのつながりを意識した店舗づくり、そして何より「遊んでよかった」と思わせる体験価値の再構築が求められる。
メダルゲームが示したように、人は何も得られなくても、そこに意味を見出せる。パチンコもまた「おカネを得る場所」ではなく「何かを感じられる場所」になることが求められている。

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