特に象徴的だったのが、平成6年、埼玉県寄居町で大量の使用済み遊技機が野積みにされたまま放置されていることが新聞等で報道され、一気に社会問題化した。
当時は運送業者が自治体へ廃棄台を持ち込んで処理してもらっていたが、次第に自治体が受け付けなくなり、困った運送業者や処理業者が不法投棄するようになったのが原因だった。
寄居町の不法投棄は、メーカーや販社等の業界4団体が費用を負担し合い2年かけて約2万5千台の撤去作業を行った。
話しは平成10年頃まで遡る。
名古屋の松坂屋にいる時にA氏のケータイが鳴った。見知らぬ番号だったが電話に出た。
「もしもし〇〇さんですか?」
「そうですが。誰からこの番号を聞きました?」
「心斎橋のクラブのママの〇〇…」
クラブのママの名前を聞いて、A氏は電話が入ることをようやく、思い出した。
電話の相手はM社の幹部だった。
「一度お会いして話をしたい」
それで向かった先が、M社の精錬所がある島だった。
島の周辺は銅鉱山が集積していて、精錬所建設に向いている立地だった。そこで国家事業として、大正6年にM社が中央精錬所として建設したもので、1世紀以上の歴史がある。
平成の時代に入ると産業廃棄物問題からリサイクル事業へも進出する。その過程で廃基板から金を回収する事業にも乗り出していた。
岡山県に向かうとクルーザーが迎えに来ていた。まず、島を案内されたのちに、金を精錬する工場などを見学した。そこには廃棄されたパチンコ台がズラリと並んでいた。
M社が着目したのが、年間400万台が廃棄処分されるパチンコ・スロット台の基板だった。この基板から金を回収するのが狙いだった。技術はかなり進んでいて、パチンコ台を破砕機にかけるだけで、自動的に金を回収するシステムが出来上がっていた。
その技術を目の当たりにしたA氏は「さすがにM」と感心しきりだった。
会議室に通され、幹部は単刀直入にこう切り出した。
「Aさんと直接取引がしたい。それで100万台のパチンコ台を集めていただきたい」
「100万台は無理かもしれない。80万台になりませんか?」
「それでもいいからやってみてください」
A氏は会社に帰って計算してみたが、どうやっても30万台ぐらいにしか集めることができないことが分かる。
しかもM社の要求は1回こっきりではなく、毎月100万台である。年間で400万台しか廃棄されないのに毎月100万台は現実問題として無理な話である。
結局、この話は流れてしまったが、昔は宝の山を捨てていたことが良く分かる。
毎月100万台は無理としても、廃棄台利権をA氏が一手に握っていたら、今頃の人生は大きく変わっていたはずだ。

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