当時、ビールは酒屋からびんビールをケースで買っていた。当時飲んでいたのはキリンのラガーだった。
いつも配達に来る酒屋さんが「今度アサヒから出たスーパードライが美味しいので一度飲んでください」と勧められ、スーパードライにチャレンジした。
今まで、ラガーの苦味があまり好きではなかったので、苦味のないスーパードライにこれをきっかけに切り替えた。
80年代半ば、ビール業界では万年最下位だったサントリーに追い越されそうになるぐらい瀕死の状態だったアサヒの立て直しに、住友銀行の副頭取だった樋口廣太郎氏が送り込まれたのが昭和61年だった。
樋口氏が送り込まれる前から住友銀行出身の村井勉氏が立て直しを図るために送り込まれていた。この時期に市場調査を行って、最近の若者は苦味のあるビールが嫌いで、コクと切れを求めていることが分かり、商品の研究開発を進めていた。
競合他社にない新製品の開発に陣頭指揮を執ったのが樋口氏だった。
こうして誕生したのがスーパードライだ。
業界シェア最下位に転落寸前だったアサヒビールをスーパードライで立て直し、巨人キリンを抜いて業界トップに立ったことから、樋口氏はアサヒビールの中興の祖とまでいわれた。
「スーパードライが大ヒットしていなかったら、樋口さんは本気で日本一のパチンコ店を作ろうとしていましたからね。今では語り草ですよ」と話すのは当時を知るアサヒビールの関係者。
樋口氏は元々は同社の清算目的で送り込まれた節があった。水面下でサントリービールに売却交渉が進められていたが、破談になった。
この時期に考えられたのがパチンコ業界への進出だった。
「私は当初、会社の収益を確保するために、日本一のパチンコ屋を作ろうとしたんです。向島の倉庫があるところに、30階のパチンコ10店と、隣に31階建てのガレージを建てて、だいたい50億円の収入を上げて会社を立て直そうとした」(週刊ポスト2001年7月13日号)
昭和60年代といえば、フィーバーブームでパチンコ業界の右肩上がりが始まった頃。住友銀行は住銀リースを使ってパチンコ店へ積極的に融資を行っていた。
銀行マンの樋口氏にすれば、当時のパチンコ店がどのぐらい儲かっていたかは、十分把握していたはずだ。
あまりにも儲かりすぎて、大学の先生や医者の道に進んでいた、オーナーの息子たちが次々に呼び戻されて家業を継ぐことになった時期でもある。
しかも、当時は大手チェーンも存在していない時代。
スーパードライの爆発的ヒットがなければ、今頃は日本一のパチンコチェーンになっていた可能性もなきにしもあらずだ。
スーパードライは発売から27年経っても売れ続けている。
パチンコ業界でいうところの海物語のような存在である。

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