日電協が設立される前のスロット業界の草創期を知っている人たちが、時間の経過と共に業界から消えていっている。実際、鬼籍に入った人も数多くいるが、20代でスロット業界に入った人でさえも50代半ば。業界を離れた人も少なくない。
25歳のとき日刊アルバイトニュースを見てスロットメーカーに入ったHさんの人生も波乱万丈に富んでいた。
仕事の内容ははゲーム機器の組立作業。時給の高さにつられた。
面接申し込みの電話を入れたとき「募集人員に達しています」と断られたが、Hさんはひるむことなく「1人ぐらい何とかなりませんか」と粘った。
すると事務員が責任者につなぎ面接してもらえることになった。押しかけアルバイト入社だった。
仕事は鋳物にブリキをビス止めする作業だった。それまでパチンコもスロットもやったことがなかったので、それが何の部品かも分からずにホッパーを組み立てていた。
1週間ほどホッパーの組み立てをやった後、修理部門に回された。工業高校の機械科を出ていたが電気のことはさっぱり分からない。抵抗やコンデンサーのことを一から勉強し始めた矢先だった。
アルバイトを始めて2週間ほどが経った時だった。
四国に納入した機械が動かないとホールオーナーからクレームの電話が入った。仕事が終ろうという時間帯で誰も行きたがらない。そこで入社2週間のHさんに白羽の矢が立った。
「Hくん、今から飛行機で四国まで行ってくれるか?」
飛行機に乗るのは初めてで、そのうれしさの方が先立って「はい、行きます」と返事してしまう。入社2週間、メイン基板のことも分からないレベルだった。
現地に到着したのは閉店前だった。強面のオーナーはゆでだこのように怒っていた。先方にすればメーカーの人間だと思い込んでいるが、まだ入社2週間のアルバイトだ。設定や割数のことも分からないアルバイトだ。
Hさんは一つずつ部品を変えてみた。2時間ほど悪戦苦闘する中で機械が動くようになった。
オーナーの機嫌も直り、閉店していた焼肉屋をわざわざ開けさせて、焼肉をご馳走してくれた。
3日後、名古屋にあるメーカーの直営店から「機械が動かない、メダルを払い出さない」との電話が入り、再びアルバイトのHさんが現地に飛んだ。
ここでも部品を一つずつ交換するところから始めた。途中で電源の線が抜けていることに気づいた。店側のボンミスだった。1時間ほどかけて「直りました」というと、ホールは「すごいエンジニアがきた」と感心しきりだった。
組み立てとメンテの仕事を半年続けていると「正社員にならないか」と声がかかった。
正社員になった途端に給料が下がったが、1年半後には主任、さらにすぐに係長と昇進して行き、機械の企画開発部門の責任者になると共に、製造、販売、技術、営業全般に関わるようになる。
順風満帆な生活も長くは続かなかった。入社13年目で会社がある事件を起こし、機械が検定取り消しになる。日電協を除名処分になり会社は解散した。
この事件ではHさんも逮捕されるが不起訴処分となった。
その事件より、だいぶ前にスロットメーカーが脱税事件で世間を騒がせたことがある。これに関連したメーカーは結果的には消えていくことになるが、その時代のメーカーもあって現在がある。
「最近の店長は大卒が多いのか、計数主義になっている。お客さんの顔が見えているのか非常に気がかりなところ。機械の入れ替えがメインになっている設備産業になっていることが分かっているんだろうか? おカネをかけなければいけない産業は、必ず斜陽化して行く。次代を担う彼らに業界の歴史の流れを知ってもらいたい」と語るのはHさんと同世代の元スロットメーカー関係者だ。
1号機、1.5号機、2号機時代のスロットはBモノがはびこっていた。Bでないものを探す方が難しいともいわれた。
「昔のBは店のためであり、お客のためだった。だからBが悪いとは思っていなかった。朝からずっと負けているお客には強制的にかけたり、開店あらしは徹底的に潰した。だから罪悪感はなかった。今はお客からもぎ取るだけのものになっている。まったく違う発想だった」
そういう論理がいつまでも認められるわけもないが、Bにはそうした時代背景があった。
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