
この時の初は液晶を使っただけでなく、価格が初めて10万円台を突破した遊技機となった。この時の出来事を80代の同社の元所長はこう述懐する。
「10万円の値段設定には上層部は随分悩んだが、いざ発売してみると全くの杞憂に終わった。皆儲かっていた時代だから少々高くても買ってくれた。その後も上げても、上げても売れないことがなかった。メーカーにとってもホールにとっても一番いい時代だった」
そんな我が世の春を謳歌することは長くは続かなかった。脱税防止のために警察庁が推し進めたプリペイドカー導入からのCR機導入は、歪な業界にするターニングポイントだった。ま、この辺の問題は日報の過去記事で散々取り上げているので割愛する。
「警察がCR機から確変を認めて、射幸性があがったものだから、セブン機の売り上げがどんどん上がっていった。それにともなって売り上げの上がらないヒコーキやチューリップ台は廃れて行った。確変さえ認めていなかったら、こんな業界にはなっていなかった。今は打ちたい機械もない。業界に身を置いた人間としては寂しいばかりです」(同)
もしもCR機の確変を認めていなかったら、プリペイドカードそのものが進まなかったが、認めていなかったら連チャン機競争よりも電役機の開発競争になっていたら業界の今の風景は変っていた可能性がある。
平和の功績と言えばゼロタイガーをこの世に出したことだ。当初はヒコーキと呼ばれ、その後はハネモノに定着、各社がこぞって開発競争を繰り広げ、数々の名機が誕生した。
「Vゾーンに入る快感を皆が求めた。それが忘れられなくて、一発台の開発につながるが、最初に一発台の発想を持っていたのは大阪のホールだった。当時は思いついたことを機械に反映していた。だから面白い機械が生まれた。当時の電役機を今出してもヒットすると思う」(同)
タラればの話になってしまうが、その時、CR機に確変を認めていなかったら、業界はもっと健全な形で発展したかもしれない。電役機と言っても平成生まれには何のことか分からないが、ゼロタイガーが登場する以前は、電動で役物が動く遊技機を電役機と呼んでいた。
各メーカーが電役機開発に鎬を削ってくれたら、どんな景色のパチンコ業界になっていただろうか。

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