パチンコ日報

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3世物語 その3 最終回

大学1年生のときはホールでアルバイトしたが、毎日、スロットで勝っているお客さんを見ていると、店員として時給で働くよりも打ち手の方が儲かるように思えてきた。



それで、2年生になった時からスロプロに転向する。



狙う機械は設定が分かりやすいタイプ。ノーマルタイプで設定6を入れると出玉がついてくる機械を好んだ。



従って、一撃タイプの波の荒い機械は避けた。



5時間かけて設定が分かるような機械がベストだった。例えば初期のエヴァのように赤が多ければ、2,4,6の偶数というように。これが分かりすぎると筋肉マンのようになってしまう。



2年間はスロプロで食った。



毎日狙い台を絞り、朝10時の開店から閉店まで12時間半、それこそ1日も休むことなく、打ち続けた。残りの30分は翌日のためのデータ取りの時間に費やした。



メインで打つ店が1店舗、設定が入っている情報を聞いたらいく店が2店舗、ハイエナへ行く店が4店舗あった。



「へこんでいる台には必ず設定を入れてくれる親切な店がありました。普段は中間設定は使わず、還元する日は還元する。毎朝7時に起きて、車で1時間半かけて通っていました」



1カ月で100万円ほど勝った。毎日プラスで終わることを心がけた。



しかし、こんな過酷な生活がいつまでも続けられるわけがない。若いといっても体力も使う。ある日、弟に1日5万円渡して、代打ちさせたことがあった。



その噂を聞いた弟の友達がウチコを志願するようになり、最終的には10人を束ねるウチコの親方になっていた。



抽選に並ばせ、いい番号を引いた者だけに軍資金3万円を渡し、時給1000円で打たせた。



食費も渡したので差し引くと1台で1万円ぐらいの稼ぎにしかならなかったが、ウチコの人数が増えれば稼ぎも増えた。



もちろん、スロプロをやっていることは父親には内緒にした。朝から晩までスロプロ稼業に明け暮れていたので、大学へ行く時間などなかった。



就職を意識するようになり、スロプロからは足を洗うことにしたが、4年で卒業することはできず、1年留年する。その時父親に事情を話して、こっぴどく叱られる。



2年間トータルで2500万円ほどプラスにしていた。



父親の会社に入る。



地元では自他共に認める繁盛店だ。



「私は経営はしたことがないが、ユーザーの意見はいえる。父はパチンコもスロットも打ったことがない。これは、シェフが自分の作った料理を味見もしないでお客様に提供しているようなもの。昔はそのやり方でもよかったが、今は違う。父はお客様の心理がまったく分かっていない。パチンコ=負けると思っているから無駄な遊びになっている。勝ち、負けではなく楽しさを伝えられないホールがどんどん衰退している」



父親の会社も例外ではなかった。かつての繁盛店にも陰りが見え始めていた。



一物一価を遵守している県で営業しているために、パチンコ・スロットは等価が主流となり、客離れに加速がついている。



そこで、父親にパチンコとスロットの併設店をパチンコ専門店にして、交換率を等価から低価にすることを提案した。



スロットは敷地内のドラッグストアーが空いたら、ジャグラーの専門店にする。



父親の回答は無碍もなかった。



「成功するかどうかも分からないものを一番にする必要はない」



2代目は会社を作ったことがないので、会社が潰れないように守りに入ろうとする。しかも必要な粗利の固定観念もある。それでいて、2代目はパチンコも打たない。ユーザーの気持ちが分からない。今のやり方を変えないからどんどん悪い方向へ業界は進んでいる。



3代目には自分なりのアイデアがある。



「キャッシュポイントを別のところから増やして、パチンコユーザーから減らすことです」



詳細は書けないが、パチンコとはまったく関係のないところからの手数料収入だ。



「これで父の会社を儲けさせて、立て直したい」



成功した暁には詳細を紹介したいと思う。









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