パチンコ日報

ニュースにならないニュースの宝庫 

波乱万丈人生記 その1

1968年12月に川崎の朝鮮部落の池上町に5人兄弟の長男として生まれました。



父は韓国からポンポン船で一攫千金を求め、母は小学生の時に家族で日本に来たと聞きました。



私はいわゆる在日韓国人2世になります。



父は鉄屑を集めたりして生計を立てた後、大手の会社の下請け会社を営むまでになり、高度経済成長の真っ只中で父の会社は順調でしたが、父が競馬や競輪などのギャンブルにのめり込み、すべてのお金をつぎ込んでしまいました。



税金を納めなかったために国税が会社や家に押しかけるような始末で、みかねた親会社が父の会社から手を引くと言われ、仕方なく母の妹の旦那に会社を譲るはめになってしまいました。



その頃の自宅は当時としては珍しくボットン便所でプレハブ小屋のような感じで、雨漏りがひどく、夏になるとトイレの異臭が家中に立ち込めてしまう家で17才まで住みました。



17才の時に母が6テーブルの小さな焼き肉店を始め、母と姉たちの家族総出の焼き肉店で私と弟を大学まで出してくれました。



この頃から、いつか商売をして成功したいと強く思うようになりました。



大学を卒業する時、何の商売をするかが決まらず、とりあえずお金の動きを分かったほうがいいと思い、在日系の信用組合に就職し、どの商売がいいかを考えていました。



母の焼き肉店を継いで大きくするか、叔父が経営している元々父が興した会社に入るか、いろいろ考えていた時、叔母が経営しているパチスロ店が行き詰まっていました。



母は焼き肉店で貯めた資金や家を抵当に入れ、全て叔母につぎ込み、保証人にもなっていました。



私は元々、高校生の頃からパチスロ、パチンコをしていて、何でパチンコ店はタバコの煙がモクモクで、柄の悪い店員がカギをじゃらじゃらしながら働いているんだろうと疑問に思っていて、私がお店をすれば、流行るのではないかという根拠のない自信がありました。



41台のパチスロ店で負債が2億円。24才にして2億円の借金を背負いました。



当時、ニューパルサー全盛だったのですが、その店は41台全台プラネットしかなく、何とかニューパルサーを手に入れようと、信用組合を辞めずに、昼は信用組合のサラリーマン、夜はパチスロ店の店長の二足のわらじを履き、それまで貯めていたお金とサラリーマンの給料、母が貸してくれた100万円、合計500万円でニューパルサー12台の購入資金が出来ました。



ニューパルサーを導入するまでにやらなければならないことがありました。



リーチ目を探し、拾っているあまり柄の良くないお客様を出入り禁止にすること。



1時間に3回以上の台の移動を禁止する店ルールを作りました。そのお客様は私の胸ぐらに手をとり怒っていますが、こちらとしても2億円の借金がありますので、店を良くするためには一歩も引くわけにはいかず、私もお客様の胸ぐらに手を握りしめ、私は何をするか分かりませんよと言ったら、店内から出ていきました。



もう一つ、やらなければならないことがありました。若い女性スタッフを店に入れること。



若い女性スタッフがいれば、お客様が来るのではないかと思い、当時では珍しく若い女性スタッフを雇いました。



これで準備が整いましたが、肝心のニューパルサーがバカ売れで納期未定になっていました。



仕方なく、500万円の資金でジャックポットを購入するかを代理店に相談したら、ニューパルサーを待ったほうがいいと言われ、その代理店の人はジャックポットを売れば儲かるのに、ニューパルサーの代理店まで紹介してくれて、ニューパルサーを購入できるようにしてくれました。



本当に感謝しています。



半年待ち、いよいよニューパルサーの初日がやって来ました。



前日は初めての入れ替え作業や店内の清掃などで一睡もできず、お客様が来るかどうかで不安でした。



午後6時オープン。



店の前には長蛇の列で、店はいっぱいになり、私と若い女性スタッフはとびきりの笑顔で対応して、充実感で満ちていました。



その後、ジャックポットを9台導入しました。



私は全ての時間をパチスロに注ぎ、店舗の開け閉めやホールまわりをしながら、時間が空いたら他の店舗を見て回り、良いことがあれば店舗に取り入れました。



その甲斐あって、41台の店舗は繁盛店へと変わり、かなり儲かりましたが、借金返済と30才までに自分で100台規模の店舗を出店するために、6帖のワンルームに住んで、ひたすら貯金しました。



それから3年が経ち、資金も順調に貯まっていた時、出店するためには人脈を作らなければならないと思い、在日系の青年商工会議所に母の焼き肉の常連客の紹介で入りました。



そこで、カラオケボックスを経営している同じ年の人に会い、若くして成功している彼は眩しく見え、毎日のように二人で高級クラブで飲み、夢を語り合いました。



彼以上に高級クラブのお姉さま方も眩しく見え、我を忘れて飲んでしまい、帰りの首都高をスピンして、車が大破して少し我に帰りました。



その頃、IT会社を立ち上げて失敗したりして、折角貯めた資金をほぼ使い果たしてしまいました。



もう一度、41台のパチスロ店とパチスロコンサルで、資金を貯めていきました。



その頃、将来パチスロ店を独立したいと夢見ている優秀な学生を雇いました。

閉店後、彼はおしぼりの箱をひっくり返して座り、私とカウンター越しにまだ見ぬパチスロ店について缶コーヒーを飲みながら、毎日のように語り合いましたが、彼は私が29才の時に、父親の中国での事業を手伝うために、私の店を辞めてしまいました。



30才の時、ようやく居抜きの店舗を見つけました。



総額7,000万かかる店舗ですが、私の手持ち資金は3,000万、いとこが出資で2,000万、手形の決済で1,200万、どうしても足りない800万でした。



70才近くで焼き肉店をしている母に相談しました。



姉たちはパチスロ店を出店するお金があるなら借金を返済するべきだと、私がパチスロ店を出店することに大反対でしたが、母だけはお前なら出来ると言い、母がいつも寝ているベッドの下から現金を出して来て、数えてみなと、一言だけ言いました。



私はそのお金を数えると、そのお金には焼き肉のたれや母のであろう血が所々に付いていました。



私は涙を浮かべ、そのお金を母から借りました。



やっと資金に目処が立ち、後は社員です。



その時、優秀な人材が社員にいましたが、一人では足らないと思い、メーカーから一度納品に来たことがある元證券会社の人がいると聞き、私の日本一のパチスロ店を作るという夢を語り、スカウトしました。



二人が揃ったところに、中国に行った彼が中国を撤退して日本に戻ってきたとの連絡がオープン3日前にきて、内装が終ったばかりの新店に呼び、見せました。



彼は自分のことのように喜んでいたのですが、自分が参加出来ていないことに残念な気持ちだったと思います。



その後、すし好で涙ながらに一緒に働きたいと私に言ってきました。

私は二つ返事で一緒に日本一のパチスロ店を作ろうと答えました。



オープン当日。



一睡もしていない社員3名と私の前には夢にまで見た97台の店舗と満席の風景は夢ではなかった。



つづく…



人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える





※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。コメントがエントリーになる場合もあります。