パチスロコーナーを暗くしている店舗が主流の中、年配層を取り込むためにあえて店内は明るめにしました。
スロッターの夢である設定6を積極的に使うなど、当時では画期的な店舗で、アルバイトスタッフも最高時給で募集をして、かなりのレベルが集まったと思います。
忘年会の時に、たまたま一人で食事をしていたビートたけしや掛布のものまねで有名な芸人が飛び入りで合流した時に、どこの芸能プロダクションかを聞いてきたことがあるぐらいでした。
朝9時に41台の店舗を開け、昼には新店へ。夜に閉店作業に戻り、時間の空いた時にパチスロコンサルをするという多忙な1年を過ごしました。
努力の甲斐あって、店舗は信じられないぐらい繁盛し、東京で一番稼働率の良い店舗だったと思います。
社員も増やして手が空いた頃、人脈作りをしようと東京の在日商工会に入り、金融バリバリの同じ年の人と意気投合。銀座や六本木、赤坂へと毎日のように繰り出していました。
そんな生活を送っていた頃、パチンコ業界で破竹の勢いのある社長の講演会に行きました。
孫子の兵法やランチェスター戦略等、私の知らないことだらけ。経営者としてビジネスに関わることを知らなければ、この先行き詰まるのではないかと思い、講演を聞いた後、直ちに本屋に立ち寄りました。10冊ぐらいビジネス書を買い、1日10時間位読んでいきました。
1年間でおよそ200冊ぐらい読みました。私にとって貴重な年だったと思います。
その後、リクナビで大卒の新入社員を採用。人材教育も力を入れ、会社の組織作りを始めました。
2002年、2号店である店舗を見つけました。
人材は揃っていました。しかし、私の豪遊が祟り自己資金はほとんどありません。銀行の融資も出なかったので、ほぼオール手形、という無謀な出店でした。
月末になると、手形の決済が出来るかどうかが不安で眠れませんでしたが、2号店も繁盛しなんとか切り抜けられて来られました。
翌年には1号店のビルのオーナーから「ビルを購入しないか」と持ちかけられ、本社ビルを購入。34才の私は日本一のパチスロチェーンを作ろうと思うようになっていました。
会社の業績も伸び、かなりの利益を出していました。現金も2億円ほど貯まると、今度は大手銀行が20億円の融資話まで転がり込んでくるようになりました。
17名の社員総出で物件を探しまわりました。
4号機全盛でパチンコ業界の景気は最高潮。パチンコ物件はどこも驚くほど高値をつけていたため、なかなか手を出すことができませんでした。
もたもたしている間に、4号機から5号機に変わる、という業界を震撼させる問題が勃発しました。
いわゆる5号機問題です。
売上げは半分以下。4号機から5号機への入れ替え費用も嵩んだ上に、2店舗で社員17名というハイコスト経営をしていたために、会社は瞬く間に赤字に陥りました。
その頃、IT会社や新店にも出資しましたが、うまく行かずに撤退するはめにもなりました。
その後、大幅なリストラのための退職金コストなどで、2億円あった現金は底をつき、厳しい経営状況に追い込まれました。
この時、有頂天になっていた自分を悔い、自暴自棄に陥りました。何をするのも嫌になり、パチスロコンサルも中国から帰ってきた彼に譲り、1号店も閉店させてしまったのです。
そんな時、パチンコ店を経営している後輩と飲む機会がありました。彼の店舗はお客様は少ないのですが、超ローコスト経営で利益が出ていると聞き、私は頭を鈍器で叩かれたような衝撃でした。
店舗はどんなにお客様が入っていても、ハイコスト経営で利益が出なければ、何の意味もありません。
お店が潰れてしまったら、社員は働く場所を失い、家族みんなが路頭に迷ってしまいます。
お客様が少なくてもローコスト経営で利益を出し、お店を継続すべきだと決意しました。
大量に購入していた新台を減らし、スタッフも必要最小限にしたり、とありとあらゆる経費を削減した結果、利益が出るようになるまでになりました。
現在、千葉県で116台のローコスト運営のパチスロ専門店(ジャグラー・ハナハナ系が50%。ほとんど新台入れ替えをせず、20スロのみで平均稼働1万3000枚弱)と都内のテナントビル、神奈川県のテナント物件を無借金で経営しています。
チャンスがあれば、もう一度出店したいと思っています。
今でも日本一のパチスロ店を作る夢は捨てていません。
※波乱万丈人生記その1は、パチンコビレジに掲載されたものを転載したものでした。

※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。コメントがエントリーになる場合もあります。