何もかも捨ててこの店とおさらばできることを考えたら、妙に気持ちが軽くなった。カルティエの前に立つと何も言えなかった僕であったが、もうそんなことを気にすることもない。今まで悩み、苦しんできた自分がバカらしい。多少の緊張はあったが退職の意を告げるべく揚々と部屋を出ようとした、その刹那。
「坂井さん、いますか。店長が呼んでるでがんす」
木村君の声がドアの外から聞こえる。店長と言われて条件反射で一瞬緊張が走るが、今日の僕には余裕がある。もうカルティエに媚びる必要もないしへつらう理由もない。
「坂井さん、なんか大事な話があるからすぐに降りてこいって言ってやすよ。一体何でしょうかねえ」
げんなりした。僕が辞めることを知らないからそれはそれで仕方がないが、その前に今は勤務時間外である。人の都合も個人の自由時間もないのか。自分勝手に物事を決めるカルティエの無神経さに呆れてものが言えない。しかしここで彼のペースに乗ってはいけない。
「ちょうど良かった。僕も話があって今降りようと思ってたんだ」
僕は余裕綽々の体で木村くんの顔を見た。
「え?そうなんですかい」
木村くんがやけに冷静な視線で僕の頭のてっぺんから足元までじっとりとした目で僕を見る。
「坂井さん、まさかやめようとしてる?あっしの勘は鋭いでげすよ」
「な、なんでそんなことがわかる。俺はまだ何も言ってないじゃないか」
「そんなことはですね、言われなくてもわかるんでげすよ。ほら、ちゃんと顔に書いてありやすから。今まで辞めていった奴らの特徴とでも言いましょうかね。みんな暗い顔してるでやんす。今日の坂井さんみたくね」
そんなに暗い顔をしているのかと思わず自分の頬を撫でて慌てて手を引っ込めた。木村くんは業務連絡で呼び出しがかかっていると言うが早いか、会話を一方的に打ち切り、怒涛のごとく階下へと駆け下りていった。なんとなく取り残された感の僕は仕方なしにのそのそと事務所へ向かった。
「失礼します」
ふてくされ気味に事務所に入る。カルティエが嫌いなわけではないのだが、何故か彼の前に出ると素直になれない。特に西田事件のあとはその症状が顕著になった。
カルティエはおう、と生返事をしたまま事務仕事の手を休めない。人を呼んでおいてなんていう失礼なやつだ。今更ながらに腹が立つ。
「なんか用ですか」
思った以上に自分の発した語気が強かったため僕は逆に自分の言葉にビビった。
「なんだ坂井、今日は荒れているのか」
「いえ、べつに、なんでもないす」
部屋にいた時の強気な自分は既にどこかに行ってしまい、借りてきた猫のように何も言えなかった。どうしてこうもカルティエの前に出ると下手に出てしまうのだろうか。
「そうか、まあいいや。ちょっとこっち来て座ってみな」
カルティエの顔が心なしか柔和に見えた。こんな時は必ず裏がある。嫌な予感がしてきた。
「実はな、坂井。昨日社長とも話をしたんだけどよ。お前を来月、つまり明日から主任に格上げしようと思ってな。まあ、西田の件もあって、今ホールがざわついているだろ。まとまりがねえんだよな。ギスギスしてるしよ。このままじゃあ、あまり具合が良くねえからお前にそのまとめ役をお願いしようと思ってよ、この俺が社長に推薦してやったんだ。どうだ、坂井。引き受けてくれるよな。それから給料だけど、今までの十八万から 二十一万にあげてやっからよ」
一応僕の意向を聞いている素振りは見せてはいるが、これは既に決定事項であり、『お前わかってるだろうな』と脅しているのである。しかも恩着せがましく。僕は絶句した。なんで僕なのか。関口さんだっているし、僕より経験が長い人がその役を担うべきであって、これはあまりにも現実離れした納得のいかない処遇だと思う。
「まず主任の役目だけどな、ほかの奴より高い給料とるわけだからよ、当然のことながら同じような仕事っぷりじゃあうまかねえよな。だから明日からお前は誰よりも早くホールに出て仕事せんといかんぞ。それから今まで関口がやっていた釣銭を両替気に詰める作業もお前の仕事だ。金を扱うわけだから今まで以上に真剣に取り組めよ」
なんという理不尽な話であろうか。たかだか給料3万円上げて、何でもかんでもやらせてしまおうと
いう魂胆が見え見えなのである。だんだん腹が立ってきた。
「昼の休憩を回すのもお前の仕事だ。だからってお前が最初に飯食うんじゃあねえぞ。お前は一番最後に飯食え。一服休憩も一緒だ。とにかく全てにおいてお前は犠牲的精神を充分に発揮して、みんなの尊敬を集められるような立派な主任になるんだぞ。これを率先垂範という。わかるか?まあお前にはわかんねえか。がははははは」
品のない笑い声に僕のハラワタは更に煮えくり返る。カルティエ、そういうお前は率先垂範やっているのか。みんなの尊敬を集めて店長として仕事を全うしているのか。僕の心に渦巻く激しい感情がピークに達しようとしている。
「なんだ、ん?お前あんまり嬉しくなそうだな。いいか坂井。これはお前にとってチャンスなんだぞ。ぱちんこ屋で主任として認められるということは大変なことなんだ。主任の経験をしっかり積んで苦労を重ねて、それからやっと店長職にありつけるわけだからな。まあ、お前がいくら頑張ってもこの店に俺がいる限りは店長になることはねえがな。この俺様も店長になるまで足掛け8年経ってのことだからよ。お前なんかもっともっと苦労しなくちゃあな。がはははは。頑張れよ、坂井しゅに~ん。がはははは」
怒りの三段活用は既にその限界を超えてしまった。僕はこれまでこんなに人を憎んだことがなかった。出来ることならこの場でカルティエのよく回るその舌を引っこ抜いてやりたかった。
つづく
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