この時の出会いから1年後ぐらいに取材できる関係になった。
ホールオーナーは奥さんや子供にも現職と前職を一切明かしていなかった…。
定年退職した記者は、この話を業界人にどうしてもしたくて、20年前の取材ノートを携えて待ち合わせ場所へやってきた。
ホールオーナーはA社長としよう。
A社長の年は20年前で70代だった。
A社長は若い頃は大手商社に勤務していた。1960年頃に「団地金融は非常に儲かる」という情報を聞きつけてその世界に飛び込んだ。
この時代、公社の団地はダイニングキッチンや水洗トイレなどの最新設備が整い、サラリーマンの憧れの的だった。入居するには年収などの厳しい審査をパスしなければならなかった。団地に住めるのはいわば給料水準が高いエリートだった。
団地金融は団地に住む主婦を対象におカネを貸していた。当時は年利109.5%が許されていた時代だ。例えば10万円借りると1年後には20万9500円なった。別名日掛け金融と呼ばれ、日単位で返済日が決められていたことに由来する。
日掛け金融は小口の融資が多く、回収に手間がかかるということからこの高利が認められていた。
で、団地金融は、審査に関しては既に公社が行ってくれている。一定の収入があるサラリーマンの奥さんなので、金融のノウハウがなくても、貸し倒れが少ないことが着目された。当時の主婦は責任意識も高かったので夫に内緒で借りたおカネを何とかやり繰りして返済してくれた。
それでも返済が滞ると「近所に噂をばら撒くぞ」と旦那を脅し、焦げ付きを極力抑えた。
大卒の初任給が1万8000円の時代に、年間1億円を荒稼ぎした。
ホール経営に参入するきっかけは、おカネを貸していた主婦からの「パチンコ屋を売りたい人がいる」という情報だった。
1970年のことだった。
団地金融をやっていたこともそうだが、ホール経営を始めたことも家族には内緒だった。団地金融で稼いだカネは税金を納めることもなかったため、後ろめたさがあったからだ。パチンコに関しては在日産業だったこともある。当時、日本人経営者は稀だった。
パチンコは最盛期には30店舗まで拡大していたが、記者が出会った20年前は15店舗まで縮小していた。
20年前と言えばスロット4号機全盛期で、業界が一番好景気に沸いていた時期だが、この時A社長は既に手仕舞いを考えていた。
理由は既に「団地金融」と言う言葉自体が死語になっていたように、4号機で沸いているパチンコ業界が団地金融とダブって見えた。
「団地金融もパチンコも簡単におカネが儲かった。団地金融の経験からこういう商売は絶対長続きしない。いずれ萎んで破綻する」と記者に語っていた。
20年前にこの話を聞いた記者は、業界が空前の利益を出していたこともあり、「アホかと思ったが、今、その通りになってきている。先見の明があったのでどうしても業界の人にこの話を聞いて欲しかった」と話す。
簡単に大儲けできる商売が長続きするはずがないことを肝に銘じなければならない。

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私もパチンコを始めた頃はよくお店で見かけました。
いつも見かけるのにパチンコも打たないので
カウンターのおばちゃんに「あの人誰?」
と聞いても濁すばかり。
私も若くて気になって仕方ないのでそのオッちゃんに声かけたら
「45」って俺に数字を言うんだよね。
「座れよ、いいぞ。」って。
サンドに入れた百円で即打ち止めちゃった。
翌日礼を言ってからお互い2度と話しかけなかったけど
なんかよく分かんない懐かしい思い出です。
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