このニュースを聞いて、15年前にダイエーを退社したAさんは、改めてダイエーが本気でパチンコ業界に攻め込んで行ったら、パチンコ業界がどう変革していたかに思いを馳せるようになった。
ダイエーが関東の中堅スーパー忠実屋を傘下に収めたのは1994年のことだった。忠実屋が町田で経営していたパチンコ店「パンドラ」もそのままダイエーの傘下に入ることになった。
翌95年からダイエー「パンドラ」の出店攻勢が展開される。なにせ、休眠状態の土地、建物を所有していたため、数々の立地条件のパターンでトライアルした。
96年、大阪・ナンバにオープンしたオリエンタルホテルの地下フロアを全面パチンコホールにして、業界の度肝を抜いたこともある。
当時、中内会長は「地下フロアで物販をやっても流行らない。消去法からパチンコが残った。後発で今からやってももう遅い」とパチンコ経営にはあまり関心を示さなかった。幹部の中にはパチンコ出店にブレーキを掛けるものもいたため、中内会長の判断ミスにもなった。
ダイエーOBのAさんはいう。
「ダイエーが参入した当時は、マルハンがここまで大きくなることを誰も想像していなかった。本気でダイエーがパチンコ経営をやっていたら、パチンコ業界はもっと変わっていたかも知れません」
ダイエーがパチンコ店経営をするメリットは、自社で一般景品の流通市場を持っていることだった。ま、それは一般景品が半分ぐらい出た時の話である。ダイエーが経営するホールであろうが、換金する客は変わらない。98%以上は換金客だ。
事業拡大に野心を燃やすのが中内流だった。それが何故だかパチンコには抵抗を覚えた。
中内会長が残した名言がある。
「神戸から2つのチェーン企業が生まれた。それはダイエーと山口組だ。どちらも焼け跡から這い上がってナショナルチェーンになった」
ホールを全国展開する上で、暴力団の絡みを恐れたことが出店の足かせになった、ともいわれている。
「ホークス球団を買わないで、そのおカネをパチンコに投資していたら…」(Aさん)
当時、ダイエーのパチンコ経営についてよく取材をしていた。広報の窓口はナンバの歌舞伎座の中にあった。その過程で分かったことは、大企業はホール経営には向いていない、ということだった。
パチンコ店のオーナーは新台を買うかどうかの判断をその場で瞬時に決めて、いいと思った台は大量に抑える時代だった。そんな時に社内稟議、稟議で新台の買い注文を出していたら、サラリーマン役員や店長では、いい台などは抑えることができない、ということだった。
大金が動き、スピードが求められるオーナー判断を店長に求める方が無理だ。
親会社の経営難で、パンドラは長野のアメニティーズに売却され、中内会長の芦屋市六麓荘町の邸宅はマルハンの持ち物になっている、という。

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