仕事が終わると赤坂・一ツ木通りのパチンコ屋へ行くのが日課となっていた。
大阪から出てきて驚いたのが、東京のパチンコ屋は換金をしないことだった。その分、日用品の景品の品揃えは豊富だった。
上司がゴルフ好きで「ゴルフボールなら買い取ってやる」ということで、パチンコで勝つと3個入りのゴルフボールを取っていた。上司はそれを半額ぐらいで買い取ってくれた。
昭和44年から46年にかけて、2年ほど東京勤務が続いたが、東京のパチンコ屋は換金できないものと思い込んでいた。
この時代の東京のパチンコ事情を知っている人は、年代的には団塊の世代以上だ。私が通っていたパチンコ屋がたまたまなのか、東京では換金した記憶がない。
パチンコ日報の読者は私のような年配者は少ないと思うが、当時の東京の換金事情に詳しい方がいればご教授願えれば、と思っている。
当時の時代背景では美濃部都知事が東京都の公営ギャンブルを廃止していた時代なので、換金を禁止していたのか、と思ったりしている。
東日本大震災を機に東京から逃げ出す企業が増えている、という。それに伴って東京都の法人税収入が減ることが予想される中、石原知事が新たな財源確保にしたいのがカジノらしい。
東北の復興のためにも仙台にカジノを作る話しが急浮上している。
まさに、どさくさ紛れのカジノ法案であるが、お台場にカジノを作りたがっていた石原知事にとっては好都合なことでもある。
東電管内の電力不足に対して石原知事は「政令で強制力を持って臨め」と要請していたが、政府は37年ぶりに7月1日から電力使用制限令を発動した。
言い出したら絶対にやる、といわれている石原知事の最終目標は、電力不足を理由にパチンコバッシングを続け、最終的には東京でカジノをやりたいのだろうが、その準備が着々と進んでいるように私の目には映る。

??? この記事は読んだ様な?
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この時代の赤坂のパチンコ屋というと、パーラー赤坂、モンタナ、キクヤでしょうか?
現在は建物すら現存していませんが(^^;
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換金はありました。その頃、葛飾の金町でパチンコしていて友達が換金しました。カウンターで換金所を聞いて少し離れた場所まで歩いた記憶があります。
今は遠い思い出になってしまいましたが…懐かしさがいっぱい込み上げてきます。
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当時換金は暴力団が仕切っておりました。昭和40年代中盤は、銀座の東声会と赤坂の(組織名失念)組がショバ争いの最中で、一時期エアポケットのように替場が存在しない時期があったと、記憶しております。この時代赤坂といえば、「月世界」という著名なキャバレーがあり、その店の隣のビルが売りに出ていると銀行から耳打ちされました。結構な値段だったと記憶しています。耳打ちの翌週「西村なる男が買ったらしい」と友人から電話があり、このとき初めて、日拓の名前を耳にしました。
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多分その頃だったと思いますが、岩手県では換金が禁止されていました。(はずです・・)
子供の頃の話なので、年代は曖昧ですが、大人達が話をしていたことを思い出しました。
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当時はタバコに交換して、タバコを買い取ってくれる業者に持っていった記憶があります。
東京は暴力団が換金所を経営していましたから、いろんな要因で突然換金所がなくなるとか当たり前ですし、TUCに統一された今でも換金所の場所はわかりにくく、店も表向きは関知していないことになっています(だからこそ普通に中身を取り出して普通の貴金属買取屋に持ち込まれたりしてるのだが)。
ちなみに、東京と異なり大阪は警察の外郭団体(社団法人)が換金所を経営しています。だからこそ、わかり易い場所に換金所が設置されているわけで・・・
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