八年もの間連れ添った男に玲子は特別な感情を抱いたことはなかった。判を押されたような変わりばえのない毎日にいつも目の前に登場してくる男。ただそれだけの存在だった。決して悪い男ではない。むしろ玲子にはとても優しかった。
だが彼女は自分の人生において幸せな結婚生活だとか、豊かな生活などとはほど遠い処に自分の身を置いていた。故にその男の存在価値は皆無に等しかったのである。
そんな折の事である。田中秀樹という男が自分の歩む暗く、のっぺるりとした道に突如として現れたのは。顔立ち、風貌、声とどれをとってもそこら辺にいそうなぱちんこ屋の店員。普段ならそんな男を気にするはずもない玲子は自分の心の中での変化に気づいた。
この男の何かが自分の心のどこかを刺激している。彼女自身はそれが何なのかを知ることができない。恋心とも違う。だがそれに近いときめきを感じた。一生を何も求めず生きていこうと決めた玲子は大いに戸惑った。しかし彼女は得体のしれない感情を抱きながら秀樹の一挙手一投足に関心を寄せている自分が嫌いではなかった。
秀樹が入店してから数ヶ月たったある日のこと。玲子は食堂で終礼のミーティングを終え、しばらくたってからカウンターに財布を置き忘れたことに気がついた。ホールは閉まってもう誰もいないだろうと思いつつも、念のためスタッフ専用の通用門を開けてみた。鍵は掛かっていない。拍子抜けするほどの軽さで扉がすっと開く。するといつもなら真っ暗な状態であるはずのホールに人のいる気配がする。
「誰かいるんですか」
恐る恐るホールに向かって声をかける。
「あ、はい。ちょっとやり残した仕事がありまして」
声の主は秀樹だった。玲子は急に胸が高鳴るのをはっきりと感じた。
「秀くんだったの。どうしたの、こんな時間まで」
「いや、明日の早番の人出が少ないもんで。朝の掃除が大変だからレール掃除だけでもしておこうと思いまして。玲子さんこそどうしたんですか」
はにかみながらの秀樹の問いに玲子はそれには答えずしばし茫然とする。
なんなのだろう。この愚直ともいえるまっすぐな姿勢は。夜遅くまで一人で清掃をしているにもかかわらず彼の瞳は輝いている。そしてその声に一点の陰りも見えない。この瞳はどこかで見覚えがある。玲子ははっとした。父だ!一瞬にして今まで抱き続けた感情の正体が解き明かされた。
「なんで、なんでそんなこと一人で。しかも今しなけりゃいけないのよ」
玲子は胸の奥からこみ上げてくる感情を抑えることができなかった。今までずっと忘れてきた父の面影。もう思い返すまいと心に固く誓った家族の顔が秀樹を見ていると浮かんでは消えていく。中でも父の素朴なたたずまいは玲子が最も愛してやまないものであり、その姿が秀樹を通じて今鮮明によみがえったのである。
泣き崩れる玲子。何もできずにおろおろするばかりの秀樹。二人の悲しくも険しい恋の物語はこうして始まったのである。
むせび泣く玲子のうしろ姿を秀樹はじっと見つめていた。そして玲子の口から発せられた言葉の意味を必死になって探ってみた。彼は家を出てからの二年間、他人から自分を思いやる言葉をついぞ耳にしたことがなかった。考えてみれば『カギっ子』と冷やかされた小学校の時分から自分に対して本気でものを言ってくれる人がいなかった。それを思い返す秀樹の心の中でも何かが崩れ落ちた。
必死になって今までこらえてきたもの。それはこれ以上落ちこぼれてはいけないという最後の砦であった。楽な生き方はいつでもできる。しかしこの職場で楽をすればあっという間に自分が奈落の底に落ちてしまうのを秀樹は今までの経験で悟っていた。だから彼は必死になって自分の心を閉ざし、同時に人の顔を極力見ないようにしていた。
人の顔を見れば挨拶の一言もしなくてはいけない。人との会話はなぜか心が荒む。地べたをしっかと見つめ他人のすることには一切の関心を断ち切り、自分のやるべきことだけを淡々とこなしていく。彼はいつの間にかそんな生きざまを身につけていた。
しかし玲子に対してだけは少しだけ勝手が違った。玲子が秀樹に父親の姿を見たのと同じく、秀樹もまた見たことのない母のイメージを玲子に重ねていたのかも知れない。だから今まで玲子を避けるしかなかった。そうでもしないと自分の心が揺らいでしまい、最後の砦を守りきれそうになかったから。
秀樹が玲子を見守る時間。それは十分にも満たなかった。しかしその時間に秀樹は今まで味わったことのないやすらぎを感じていた。ただ、見ているだけでいい。自分がこの人のそばにいれるだけでいいと素直に思えた。
一方の玲子はこの短い時間の中で取り乱してしまった自分を恥じ、このあとどう収拾をつけたらよいのか必死になって考えていた。自分はどうかしているのではないかとも思った。
目の前にいる年下の青年に対して父の姿を重ねるだけでなく、ほのかに思いをよせ始めようとしている。不思議な感覚は悲しくてせつなくてそれでいて何か満たされた感じのものだった。急に胸が息苦しくなってきた玲子はふうっ、と一つため息をついた。
つづく

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