パチンコ日報

ニュースにならないニュースの宝庫 

第9話 終焉 ①

幻想
 
八年もの間連れ添った男に玲子は特別な感情を抱いたことはなかった。判を押されたような変わりばえのない毎日にいつも目の前に登場してくる男。ただそれだけの存在だった。決して悪い男ではない。むしろ玲子にはとても優しかった。

だが彼女は自分の人生において幸せな結婚生活だとか、豊かな生活などとはほど遠い処に自分の身を置いていた。故にその男の存在価値は皆無に等しかったのである。
 
そんな折の事である。田中秀樹という男が自分の歩む暗く、のっぺるりとした道に突如として現れたのは。顔立ち、風貌、声とどれをとってもそこら辺にいそうなぱちんこ屋の店員。普段ならそんな男を気にするはずもない玲子は自分の心の中での変化に気づいた。

この男の何かが自分の心のどこかを刺激している。彼女自身はそれが何なのかを知ることができない。恋心とも違う。だがそれに近いときめきを感じた。一生を何も求めず生きていこうと決めた玲子は大いに戸惑った。しかし彼女は得体のしれない感情を抱きながら秀樹の一挙手一投足に関心を寄せている自分が嫌いではなかった。

秀樹が入店してから数ヶ月たったある日のこと。玲子は食堂で終礼のミーティングを終え、しばらくたってからカウンターに財布を置き忘れたことに気がついた。ホールは閉まってもう誰もいないだろうと思いつつも、念のためスタッフ専用の通用門を開けてみた。鍵は掛かっていない。拍子抜けするほどの軽さで扉がすっと開く。するといつもなら真っ暗な状態であるはずのホールに人のいる気配がする。

「誰かいるんですか」

恐る恐るホールに向かって声をかける。

「あ、はい。ちょっとやり残した仕事がありまして」

声の主は秀樹だった。玲子は急に胸が高鳴るのをはっきりと感じた。

「秀くんだったの。どうしたの、こんな時間まで」

「いや、明日の早番の人出が少ないもんで。朝の掃除が大変だからレール掃除だけでもしておこうと思いまして。玲子さんこそどうしたんですか」

はにかみながらの秀樹の問いに玲子はそれには答えずしばし茫然とする。
 
なんなのだろう。この愚直ともいえるまっすぐな姿勢は。夜遅くまで一人で清掃をしているにもかかわらず彼の瞳は輝いている。そしてその声に一点の陰りも見えない。この瞳はどこかで見覚えがある。玲子ははっとした。父だ!一瞬にして今まで抱き続けた感情の正体が解き明かされた。

「なんで、なんでそんなこと一人で。しかも今しなけりゃいけないのよ」

玲子は胸の奥からこみ上げてくる感情を抑えることができなかった。今までずっと忘れてきた父の面影。もう思い返すまいと心に固く誓った家族の顔が秀樹を見ていると浮かんでは消えていく。中でも父の素朴なたたずまいは玲子が最も愛してやまないものであり、その姿が秀樹を通じて今鮮明によみがえったのである。

泣き崩れる玲子。何もできずにおろおろするばかりの秀樹。二人の悲しくも険しい恋の物語はこうして始まったのである。
 
むせび泣く玲子のうしろ姿を秀樹はじっと見つめていた。そして玲子の口から発せられた言葉の意味を必死になって探ってみた。彼は家を出てからの二年間、他人から自分を思いやる言葉をついぞ耳にしたことがなかった。考えてみれば『カギっ子』と冷やかされた小学校の時分から自分に対して本気でものを言ってくれる人がいなかった。それを思い返す秀樹の心の中でも何かが崩れ落ちた。
 
必死になって今までこらえてきたもの。それはこれ以上落ちこぼれてはいけないという最後の砦であった。楽な生き方はいつでもできる。しかしこの職場で楽をすればあっという間に自分が奈落の底に落ちてしまうのを秀樹は今までの経験で悟っていた。だから彼は必死になって自分の心を閉ざし、同時に人の顔を極力見ないようにしていた。

人の顔を見れば挨拶の一言もしなくてはいけない。人との会話はなぜか心が荒む。地べたをしっかと見つめ他人のすることには一切の関心を断ち切り、自分のやるべきことだけを淡々とこなしていく。彼はいつの間にかそんな生きざまを身につけていた。
 
しかし玲子に対してだけは少しだけ勝手が違った。玲子が秀樹に父親の姿を見たのと同じく、秀樹もまた見たことのない母のイメージを玲子に重ねていたのかも知れない。だから今まで玲子を避けるしかなかった。そうでもしないと自分の心が揺らいでしまい、最後の砦を守りきれそうになかったから。
 
秀樹が玲子を見守る時間。それは十分にも満たなかった。しかしその時間に秀樹は今まで味わったことのないやすらぎを感じていた。ただ、見ているだけでいい。自分がこの人のそばにいれるだけでいいと素直に思えた。
 
一方の玲子はこの短い時間の中で取り乱してしまった自分を恥じ、このあとどう収拾をつけたらよいのか必死になって考えていた。自分はどうかしているのではないかとも思った。

目の前にいる年下の青年に対して父の姿を重ねるだけでなく、ほのかに思いをよせ始めようとしている。不思議な感覚は悲しくてせつなくてそれでいて何か満たされた感じのものだった。急に胸が息苦しくなってきた玲子はふうっ、と一つため息をついた。

つづく


人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える

※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。

同じテーマの記事

第8話 悲しい話 ⑦

崩落

新潟の片田舎で生まれた玲子は二十歳になるまではごく普通の家に育った平凡な少女だった。実家は農家を営み両親と祖母、そして二人兄弟の長女として生まれ、家族五人は何の心配も無く毎日を過ごしていた。そんな彼女がどうして物憂げな顔をしてぱちんこ屋で働いているのか。それにはそれなりの理由があるわけで、人さまの生い立ちはその蓋を開けてみないことには他人にはわかるはずもない。
 
玲子の平凡な家庭にも貧しい家庭にもそして裕福な家庭にも正月は平等にやってくる。あときっかり二週間で長女の成人式を迎える一月一日。決して経済的に裕福とは言えないが、取り立てて不自由のない春日家。日々行うべきことを淡々と、そして懸命に家族が各々の本分を全うして生きて行く。案外幸せの尺度はそんなところにあるのかもしれない。
 
玲子の家が春日家の本家である為に元旦は多くの人たちの出入りでにぎわう。年老いた彼女の祖母はそれが何よりの楽しみであり、今年の正月も例年通りの 素朴なおせち料理に箸をつけ、地元の酒に舌鼓を打つ。あまり変化のない毎日を送るこの家族にとって正月という日は、家族はもちろんのこと親族一同にとってもかけがえのないひと時を過ごすことのできる数少ない大切な日でもあった。

長寿を祝い、今年も皆の健康と豊作を祈る集まった顔はどれも幸せそうに見える。酒を浴びるほど飲む大人たちの顔はみんな赤く、農作業で日に焼けて強張った肌もこの時ばかりは緩んで見えた。玲子はそんな大人たちの笑顔が大好きだった。宴は今年も夜遅くまで続く。
 
しかし楽しい時は永遠に続くわけではなく、名残惜しい別れの時は必ずやってくる。それぞれがこの日の締めくくりのあいさつを交わし散会する時間だ。親戚たちはそれぞれの家路につき、春日家もめいめいが寝床の支度をする。にもかかわらず玲子の祖母はまだ酒を飲んでいた。

「今年の正月はいい。うちの玲子が成人する年だ。本当に目出たい」

満面の笑みをたたえちびちびと日本酒を口にする祖母の顔はまさに恵比須顔であった。

「ばあちゃん、また明日もあんだから今日はこれくらいにしねえと」

と祖母をたしなめる玲子も笑みを浮かべ、口にはしたが本気で酒を止めるつもりはさらさらなかった。一年に一度のことだから。今日はめでたい日だから。
 
だのに現実はこうも無情なのか。この世に神がいるのであれば、何故このような惨い仕打ちをしなければならないのか、と問いたい。
 
祖母を除く春日家の家族四人が深い眠りに就いたころ、祖母は寝しなの一服をつけていた。したたかに酔った祖母はいつものように煙草の火種を器用な指さばきで、枕もとに置いてある灰皿の中に落とした。はずだった。しかしこの小さな火種が家族五人の人生を滅茶苦茶にしてしまったのである。

灰皿に収まるべき煙草の火種は祖母の意思に反し、畳の上に転げ落ちた。あれほどの酒を飲んでいなかったならばすぐにでも気付いたかもしれない。しかし酩酊状態の彼女にその判断力はなかった。
 
何というあっけなさであろうか。結局全焼してしまった家に残ったのは真っ黒に焼けた骨組と四つの焼死体だった。奇跡的に一命を取り留めた玲子は自分だけが生き残ったという現実を呪った。いっそのこと自分も何も知らずに全てを奪っていった炎にこの身を焼き尽くされたかった、と何度も慟哭した。
 
成人式の晴れ着も二十年間の思い出も家族の愛情も一瞬にして失ってしまった玲子は、その後親せきの家を転々としたが、人知れずこの地を去った。亡くなった家族を思うとここにいること自体がつらかったのだろう。殆ど焦点の合わない瞳を携えて彼女は上京していったのである。
 
自分の人生などはもうどうでもよかった。ただ今は東京と言う大都会の真ん中で見ず知らずの人の塊の中に身を沈め、あの忌まわしい過去から逃れたかった。 群衆の中の孤独感。幸せとはほど遠いところにいたが、自分だけが生きているという浅ましさを忘れさせてくれるものだった。
 
玲子がぱちんこ屋に就職したのに特別な理由はない。ただ単に金も無く、住む家も無かったからだ。働いてみてわかったことだがここで働いている人たちの大半が人に言えない何らかの事情を隠し持っていた。それは玲子にとっても同じことであり、自分の過去を詮索されないで済んだことが一番ありがたかった。

思い出したくない過去は軍艦マーチがひと時でも消してくれる。店の喧騒は玲子の傷口を少しだけふさいでくれた。玲子は働き始めてひと月もたたないうちにその店の店長に見初められ、乞われるままにその体を許し、一緒に住み始めた。貞操観念、プライド、将来の人生設計。そんなものはとうの昔にあの焼けただれた家に葬り去ってきた。だから誰でも良かったし、何でも良かった。

つづく


人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える

※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。

第8話 悲しい話 ⑥

心機一転
 
高校生の時分に大分荒れはしたものの秀樹はもともと悪い性格の持ち主ではない。要領の悪さは否めないが人情味に篤く、人を好む。そしてやると決めたことは何が何でもやり通すという根性の持ち主でもある。

新たな職場を探すべく心機一転を決め込んだ秀樹は思い切って頭を刈った。自分の決意が揺らがないようにと殊勝なことに坊主にしたのである。ここら辺の判断の鈍さが要領の悪さを物語っている。世の中はそんな秀樹の思いなどにかまってはくれないのに。
 
今回は当てのない旅ではなかった。理由は知る由も無いのだがストリップ小屋を止める前から次はぱちんこ屋と密かに決めていた。彼は奇しくも一年前にも手にした『KIOSUKU』の紙袋に身の回りのものを詰め、とあるぱちんこ屋の門を叩いた。

「従業員募集してますか」

精一杯の明るさを込めた声で事務所に入っていった。

「何だ、お前は。懲役帰りか。うちは懲役帰りを使うほど困ってねえぞ」
とにべもない返事が返ってくる。

「違います。自分は懲役とか行ってません。昨日までストリップ小屋で働いていました。で、これからぱちんこ屋さんで働きたいと思って来たのです」

「ストリップ小屋だあ?だからどうしたってんだ。お前何一人でそんなに息まいてんだ。態度ワリイぞ」

「すんません、緊張して、つい」

「ほう、一応頭下げることは知ってんだな」

事務所にいたこの不遜な態度の店長風の男は秀樹の頭のてっぺんから足のつま先まで、今にも獲物をとらえて食べてしまいそうな鋭い眼光で観察を続ける。その視線には遠慮の微塵もない。

「ふ~ん、で履歴書は」

「はい、あります。俺、一生懸命に働くんでどうかここで使ってください」

秀樹はここぞとばかりにそのクリクリ坊主の頭を低く垂れた。

こうして秀樹のぱちんこ物語は始まった。しかし彼のその物語はその情熱とは裏腹に順風満帆とは行かなかった。何せガラの悪い連中がたむろする場所である。客からは怒鳴られ、頭を小突かれ、同僚の先輩社員たちからも要領が悪いと叱られた。叱られるだけならまだしも時には鉄拳制裁と言う名の教育もいやというほど受けさせられた。ここでは誰も秀樹に対して優しくする人間はいなかった。
 
しかし不思議なことに秀樹はこの店を辞めなかった。今迄のパターンであればすぐさま辞めてもおかしくないほどの状況であるにもかかわらず、彼は毎日を馬車馬のごとく働き続けるのである。秀樹は実はこの店が好きだった。正確に言うとこの店の喧騒が好きだった。

自分の暗い過去やイジイジした思いも調子のよい軍艦マーチが勇気づけてくれた。ホール周りをしていて足が痛くなっても店の従業員の呼び込みマイクが癒してくれた。水を得た魚のような秀樹は、お客さんが出したたくさんの玉を流しながらこう思った。

「これはやっと見つけた俺の一生の仕事。絶対にのし上がってやる」と。

カルティエこと田中秀樹。人生のまき直しを図り、今日も朝から晩までホールを駆け巡る。お客に愛想を振りまき、ホールに落ちている玉を拾い続け、駐輪場に置かれている自転車の整列からごみ出しと、ぱちんこ屋の仕事は山ほどある。

一日中働き続ければ足は棒のように硬くなり、店内の騒音で耳鳴りが止まらない。お客が吸うたばこの煙を胸一杯に吸い込むと鼻毛はぼうぼうに伸び、仕事が終わる頃には真っ黒い鼻くそが山ほど出る。そんなことを秀樹は鼻にもかけない。ただひたすらに、毎日を懸命に生きる。
 
どんな人間でもまじめにこつこつと日々を送ればその人間の資質は高まる。人間の質の向上はやがてその人の魅力となり周囲の人たちの目に留まるようになる。ぱちんこ店に入社してはや六ヶ月。その間、一心不乱に働く秀樹をじっと見守り続けていたひとがいた。
 
その人の名前は春日玲子。女性である。年はもうすぐ三十に手が届く。この店で店長の妻として八年前から働いているベテラン社員でもある。玲子のトレードマークは一つに結んだ黒髪。艶やかな髪が背中まで伸び、ほどよくぬったファンデーションが持ち前の肌の白さを際立たせる。

一見男好きのする顔立ちだ。この 店に出入りするほとんどの男性客は、玲子の前を通る時に露骨に物欲しそうな視線を投げる。しかし玲子はそんななことにはお構いもせず、黙々とカウンターの仕事に集中する。
 
彼女は極端に口数が少ない。お客がぱちんこ玉と景品を交換しに来てもほとんど口を開かない。話しかけられてもほんの少し口角を上げる程度でその目は笑わない。よく見ると玲子の顔は美人ではあるが、その表情には暗い影が見て取れ、どこか薄幸の雰囲気を漂わせている。

瞳は絶えず憂いを湛え悲しみが漂っている。美人の特権なのだろうか、普通ならば「愛想が悪い」と客から文句の一つも出てくるところであるが、反して彼女にそういったクレームをつけた客は今まで一人もいない。もっとも店長の妻という立場が厳然としてある以上は当然なのかもしれない。
 
何故当然なのか。このぱちんこ屋ではお客は決して偉くはない。偉いのは客ではなくてここの店員なのである。そして店長とはまさに店員の長であるから客はおいそれと店長に文句も言えない。文句など言おうものならば店長の独断でこの店の出入りを即刻禁止されてしまうから、みんな黙っている。

更に言えば、店員は顧客にサービスを施すのではなく、客が店で悪さをしないかの監視をする為に存在するもの。更に店長はその店の法律であり、規律である。当時のぱちんこ屋とはそんな体をなしていた。今では信じられない話ではあるが。

つづく

人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える

※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。

第8話 悲しい話 ⑤

堕ちる

高校三年に上がるその年の1月、秀樹は学校を退学になる。学校に通う事の意味を感じなくなっていたところでのこの処分はさして気にもならなかった。しかし父親が秀樹と口をきいてくれないことには閉口した。小さい頃はあれほど父親を慕っていた秀樹が今はかける言葉が見つからない。
 
ある日彼は決意をする。部屋においてあったJRの駅の売店で売っているKIOSUKUのロゴが書かれている茶色の紙袋にBVDのブリーフと白い綿の靴下を何枚か放り込み、それから歯ブラシと歯磨き粉がセットになったエチケットライオンと電気髭剃りも忘れずに荷造りを終えた。
 
父親が帰ってくれば決心も揺らぐ。後ろ髪をひかれる思いで秀樹は住み慣れたこの部屋を後にした。どこに行くとも決めず、ただ心の傷をひたすらに隠しながら沈痛な面持ちで夜道をさまよう。舗装されていない車の轍によって凸凹になった道をなれた足取りでとぼとぼと歩く秀樹はいったい何を考えていたのだろうか。父親に対する懺悔の年か、あるいは記憶にあるはずのない優しい母親の笑顔か。
 
いや、今彼は鍵っ子事件が起きる前に遊んでいた小学校の友達の顔、そして顔を思い出していた。忘れるはずもない憎むべき存在。

「俺は今こんなにみじめなのに、なんでみんな楽しそうな顔してやがるんだ」といつもの秀樹なら激情に駆られて荒れまくるはずなのだが、今日だけはそんな気持ちになれない。自分が哀れで情けなくて仕方がない。
 
そんなやるせなさを払拭しようと、彼は人通りの多い駅前に足を向けた。通りすがる人々の顔が皆幸せそうに見えるのはきっと気のせいに違いない。自分にそう言い聞かせた。そして今の惨めさを必死になって否定しようとした。
 
どこに行くとも決めていない秀樹は急に空腹を覚える。ポケットをまさぐると幾枚かの紙幣と小銭があった。手持ちの金は八千五百円。他校の生徒から脅し取った金だ。そのはした金を握りしめた秀樹はこんな時でも腹が減る自分をひどくいじましいと思った。どの道いぢましいこの俺は今更優等生ぶっても何にもならない。何も気にしなければいいじゃないか、と自分を叱咤した。
 
意を決した秀樹は、ふてくされ気味の態度でマクドナルドに入りチーズバーガーとコーラをぶっきらぼうに注文する。店員のやけに明るく丁寧な積極態度が鼻に突く。

「お前ら家でもそんな態度で、そんな笑顔で暮らしてんのかよ。どうせ言われてやらされてるんだろうがよ」

喉まで出かかった言葉をかろうじて呑み込む。言えば自分がもっと惨めになるからだ。
 
空腹を幾分か満たした秀樹は少し落ち着くと、今度は逆に不安に襲われる。考えてみれば自分なんかに出来る仕事なんてあるはずもなく、つてもない。今夜はどこに泊まろうか。こうして考えてみるとこの世の中にぽつりと取り残された自分は、何てちっぽけな存在なのだろうと改めて思い知らされた。

学校とか家とか限りのある空間の中では何でもできたし何でも言えた。自分の好き放題で生きて来ても誰も何も言わなかった。だからそれでいいものだと勝手に判断していたのである。
 
ところが一度自分の知らない世界に足を踏み入れようとした途端に足が竦んだ。見慣れた駅前の風景ですらどこかよそよそしく感じる。一瞬帰ろうかとも思ったが、秀樹にその決断は下せなかった。人生乗るか反るか、上か下かの分岐点。彼は見ず知らずの世界へと足を踏み入れることを決意した。
 
この後秀樹はいろいろなことを経験する。キャバレーの呼び込みもやった。ソープランドの店員もやった。しかしどれも長くは続かなかった。性風俗の仕事が悪いとは思わない。だが何故かそこで働く従業員たちとそりが合わないのだ。意思の疎通が取れないと言うよりも、そこで働いている従業員も、そして自分も好きになれなかった。
 
職業に貴賎はないというが現実にはある。プロとしての意識をもってすればどんな職についてもそれは立派な仕事になり得る。しかしその日暮らしよろしくただ漫然と時間を費やすだけの仕事はその職種を問わず人間に貧しさを与えるのみである。場末のキャバレーやソープランド、ストリップ小屋は秀樹を貶めるのに格好な場所であった。
 
当初は破壊願望も手伝い性風俗で働く事がある種の快感を生んでいた。人目を気にせず自分の生きたいように生きる。決められた時間に決められた仕事さえしていれば食事は支給されるし、寝るところだって供給される。その日を気ままに過ごしていれば誰かに文句を言われることも無い。
 
しかしある日秀樹はこの道何十年というベテランの暮らしと自分の暮らしを比較してみた。何も変わらないのである。勤務時間も仕事の内容も新参者の自分とこのベテラン社員との差は何一つなかった。

「楽だからと言ってここにずっといたら俺もいつかはあんな風になるのか」

賢明な判断ではなかろうか。人間はどんな人間でも親をもつ。子はその親の思考回路を受け継ぐ。それが精神のDNAとも言える。自分をこの世に産んでくれた、顔を想い浮かべることすらできない母親の人生が秀樹に託されている。一生懸命に育ててくれた父親の幸せになってほしいという切なる願いが込められている。殺人を犯した犯人ですら時に親の前では無力な存在になり得るのである。
 
若い秀樹は場末の仕事を通して少しだけ物事の道理を考えるようになった。やはり何も言い残さずに出て行った後ろめたさは日を追うごとに増し、父親に対する思いも募った。秀樹の良いところは一度堕ちた自分を自力で引っ張り上げようとするそのバイタリティーにあった。
 
今は会えないけれど、この先必ず社会人として認められるようになったら父に会いに行くのだと秀樹は心に決めた。そしてその意志は決して揺らぐことなくまっすぐに伸びた。その日暮らしを決め込みその場所から動こうとしない同僚たちを尻目に秀樹はストリップ小屋を後にした。

つづく


人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える

※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。


第8話 悲しい話 ④

カギっ子

カルティエ。本名は田中秀樹。実物と名前の響きにはかなりの隔たりがある。名は体を表すと言うがそうでない場合もあるらしい。とは言え子どもの頃からずんぐりむっくりで金縁の眼鏡をかけていたわけではない。
 
中堅会社に勤める会社員を父親に持ち、たった二人きりの生活を十八年間過ごした。秀樹の母親が子宮癌で亡くなったのは彼が三歳の頃であるから正確に言えば 父親との二人暮らしは十五年くらいになる。今では一人っ子は当たり前のようにこの世に存在するが、当時とすればそれは結構珍しくもあった。

秀樹は自分に母親がいないことに関してそれほど引け目を感じてはいなかった。いや感じないようにしていた、と言ったほうが良いかもしれない。母親がいない 自分の息子を不憫に思う父親の姿が彼をそうさせていたのだ。だから母を慕うという素振りを父親の前で見せてはいけないと子供心に固く禁じていた。
 
秀樹は母親がいないことより父が残業で夜遅くなるまで帰ってこないことのほうが寂しかった。「僕に弟か妹がいればなあ」と六畳一間のアパートで何度独りごちたことか。毎日毎晩父親が帰ってくる足音だけを頼りに布団の中でまんじりともせずに待っていたのである。しかし父親の帰りをこの目で実際に見届けることは数えるほどであった。
 
母親がいないのだから当然のことながら学校が終われば自分の手で家の鍵を開けて入る。秀樹は誰もいないのを知りつつも大きな声で「ただいま」を言って部屋に入る。誰かに強要されたわけでも教わったわけでもない。ただそうしないと自分がとても寂しく思えたから。しかしある日から秀樹はそれをしなくなった。
 
小学校五年生の頃。無くさないようにと首に掛けたゴム紐の先にはアパートの鍵がぶら下がっている。それをクラスのいたずらっ子が発見し、教室のみんなに聞えよがしに大きな声で秀樹をひやかし始めたのだ。いわゆるカギっ子の象徴であるそのゴム紐を秀樹の首からひったくると

「わーい、カギっ子だあ。田中秀樹はカギっ子だぞお」

「きったねえゴム紐。まっくろじゃん」

「カギっ子は仲間に入れねえよ」
と教室の男子が口々に囃したてた。

「返してくれよ。なんだよ、おまえやめろよ、返せよ」
秀樹が向きになればなるほど男子たちは余計に面白がった。この時秀樹は集団の威力の恐ろしさを嫌というほど知らされたのである。
 
もともと心根の優しい秀樹にとってこの事件はとてもショックな出来事であった。以来彼の口数は極端に少なくなり、まわりの人の顔色を窺うようになった。普段は優しくしてくれている担任の先生や近所のおばさん達も本当は自分のことをカギっ子だと冷ややかな目で見ているのではないか、そう思うとなんだか急に恐ろしくなった。
 
こんな時にこそ母親がそばにいれば子供の変化に気付き、何らかの心のケア―を施したのであろうが、秀樹にはその肝心な母親がいないのである。そして毎日が残業続きの父親は生活を維持するのに手いっぱいでそんな秀樹の変化に気づく様子もない。
 
一体人生とはこんな些細なことでその様を大きく生えてしまうほど脆いものなのか。秀樹にとって一人で家にいる時間より学校で友達と遊んでいる時間そのものが何よりも大切であった。その宝石のように輝く、唯一の心のよりどころを一瞬にして奪われてしまったのである。

子供の軽口に罪を着せることはできないが、秀樹の人生を大きく左右してしまったことは紛れもない事実なのである。その後の秀樹は中学、高校と父親の言うとおりに進学したのだが、小学校五年の鍵っ子騒動はいつまでたっても彼の心に大きな影を落とし続けた。

誰かがひと言でも優しい言葉を彼にかけてあげたならばここまで寂しい思いをしなくてもすんだのかもしれない。しかし秀樹の学生時代に救世主は現れることはなかった。
 
心が荒んだ状態の秀樹は学校の行き帰りにほぼ毎日といっていいほど喧嘩を繰り返した。それが唯一のストレス発散の材料であったのだろう。

「強いものは絶対だ」と言うその哲学のみで毎日を過ごした。明るく朗らかな少年が傲慢で陰湿な性格の持ち主に豹変した理由、その理由に秀樹は気付いていない。彼にとってそれがそもそもの悲劇だった。
 
学年を増すごとに悪事に手を染めケンカに明け暮れる秀樹は仲間からも恐れられていた。秀樹はそんな悪循環にもだえ苦しんだ。しかし苦しめば苦しむほど彼の行動はそれとは裏腹にエスカレートしていく。喧嘩や万引きは当たり前のことであり、やがては婦女暴行の罪までも犯すことになる。
 
ここまでくると優しかった彼の父親にももうなす術がなかった。息子の悪事が原因で会社をクビになり、日雇労働者の仲間入りをするところまでに至った。秀樹はそんな最悪の状況を把握できないほど馬鹿ではなかったが、悲しいことに彼にはそれを改善したり取り繕ったりする能力が備わっていなかったのである。
 
会社をクビになった自分の父親を見て秀樹は心を痛めた。そしてこれは自分のせいだと自己嫌悪に陥る。「誰か俺を止めてくれ」幾度となく心の中で叫んだ。しかしその言葉に応えてくれる人はだれ一人として彼の周りにはいなかった。

つづく


人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える

※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。