高校三年に上がるその年の1月、秀樹は学校を退学になる。学校に通う事の意味を感じなくなっていたところでのこの処分はさして気にもならなかった。しかし父親が秀樹と口をきいてくれないことには閉口した。小さい頃はあれほど父親を慕っていた秀樹が今はかける言葉が見つからない。
ある日彼は決意をする。部屋においてあったJRの駅の売店で売っているKIOSUKUのロゴが書かれている茶色の紙袋にBVDのブリーフと白い綿の靴下を何枚か放り込み、それから歯ブラシと歯磨き粉がセットになったエチケットライオンと電気髭剃りも忘れずに荷造りを終えた。
父親が帰ってくれば決心も揺らぐ。後ろ髪をひかれる思いで秀樹は住み慣れたこの部屋を後にした。どこに行くとも決めず、ただ心の傷をひたすらに隠しながら沈痛な面持ちで夜道をさまよう。舗装されていない車の轍によって凸凹になった道をなれた足取りでとぼとぼと歩く秀樹はいったい何を考えていたのだろうか。父親に対する懺悔の年か、あるいは記憶にあるはずのない優しい母親の笑顔か。
いや、今彼は鍵っ子事件が起きる前に遊んでいた小学校の友達の顔、そして顔を思い出していた。忘れるはずもない憎むべき存在。
「俺は今こんなにみじめなのに、なんでみんな楽しそうな顔してやがるんだ」といつもの秀樹なら激情に駆られて荒れまくるはずなのだが、今日だけはそんな気持ちになれない。自分が哀れで情けなくて仕方がない。
そんなやるせなさを払拭しようと、彼は人通りの多い駅前に足を向けた。通りすがる人々の顔が皆幸せそうに見えるのはきっと気のせいに違いない。自分にそう言い聞かせた。そして今の惨めさを必死になって否定しようとした。
どこに行くとも決めていない秀樹は急に空腹を覚える。ポケットをまさぐると幾枚かの紙幣と小銭があった。手持ちの金は八千五百円。他校の生徒から脅し取った金だ。そのはした金を握りしめた秀樹はこんな時でも腹が減る自分をひどくいじましいと思った。どの道いぢましいこの俺は今更優等生ぶっても何にもならない。何も気にしなければいいじゃないか、と自分を叱咤した。
意を決した秀樹は、ふてくされ気味の態度でマクドナルドに入りチーズバーガーとコーラをぶっきらぼうに注文する。店員のやけに明るく丁寧な積極態度が鼻に突く。
「お前ら家でもそんな態度で、そんな笑顔で暮らしてんのかよ。どうせ言われてやらされてるんだろうがよ」
喉まで出かかった言葉をかろうじて呑み込む。言えば自分がもっと惨めになるからだ。
空腹を幾分か満たした秀樹は少し落ち着くと、今度は逆に不安に襲われる。考えてみれば自分なんかに出来る仕事なんてあるはずもなく、つてもない。今夜はどこに泊まろうか。こうして考えてみるとこの世の中にぽつりと取り残された自分は、何てちっぽけな存在なのだろうと改めて思い知らされた。
学校とか家とか限りのある空間の中では何でもできたし何でも言えた。自分の好き放題で生きて来ても誰も何も言わなかった。だからそれでいいものだと勝手に判断していたのである。
ところが一度自分の知らない世界に足を踏み入れようとした途端に足が竦んだ。見慣れた駅前の風景ですらどこかよそよそしく感じる。一瞬帰ろうかとも思ったが、秀樹にその決断は下せなかった。人生乗るか反るか、上か下かの分岐点。彼は見ず知らずの世界へと足を踏み入れることを決意した。
この後秀樹はいろいろなことを経験する。キャバレーの呼び込みもやった。ソープランドの店員もやった。しかしどれも長くは続かなかった。性風俗の仕事が悪いとは思わない。だが何故かそこで働く従業員たちとそりが合わないのだ。意思の疎通が取れないと言うよりも、そこで働いている従業員も、そして自分も好きになれなかった。
職業に貴賎はないというが現実にはある。プロとしての意識をもってすればどんな職についてもそれは立派な仕事になり得る。しかしその日暮らしよろしくただ漫然と時間を費やすだけの仕事はその職種を問わず人間に貧しさを与えるのみである。場末のキャバレーやソープランド、ストリップ小屋は秀樹を貶めるのに格好な場所であった。
当初は破壊願望も手伝い性風俗で働く事がある種の快感を生んでいた。人目を気にせず自分の生きたいように生きる。決められた時間に決められた仕事さえしていれば食事は支給されるし、寝るところだって供給される。その日を気ままに過ごしていれば誰かに文句を言われることも無い。
しかしある日秀樹はこの道何十年というベテランの暮らしと自分の暮らしを比較してみた。何も変わらないのである。勤務時間も仕事の内容も新参者の自分とこのベテラン社員との差は何一つなかった。
「楽だからと言ってここにずっといたら俺もいつかはあんな風になるのか」
賢明な判断ではなかろうか。人間はどんな人間でも親をもつ。子はその親の思考回路を受け継ぐ。それが精神のDNAとも言える。自分をこの世に産んでくれた、顔を想い浮かべることすらできない母親の人生が秀樹に託されている。一生懸命に育ててくれた父親の幸せになってほしいという切なる願いが込められている。殺人を犯した犯人ですら時に親の前では無力な存在になり得るのである。
若い秀樹は場末の仕事を通して少しだけ物事の道理を考えるようになった。やはり何も言い残さずに出て行った後ろめたさは日を追うごとに増し、父親に対する思いも募った。秀樹の良いところは一度堕ちた自分を自力で引っ張り上げようとするそのバイタリティーにあった。
今は会えないけれど、この先必ず社会人として認められるようになったら父に会いに行くのだと秀樹は心に決めた。そしてその意志は決して揺らぐことなくまっすぐに伸びた。その日暮らしを決め込みその場所から動こうとしない同僚たちを尻目に秀樹はストリップ小屋を後にした。
つづく

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ちなみに俺は全く興味が無い・・・。
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自分に合わないと思うのなら見なければよい、
人様の作ったサイトに見に来て、人様の小説の感想を言うならまだしも、
それを興味がないとか、話の続きに誰も期待していないなど、発言になんの意味があるのか。創作意欲を削ぐ事が楽しいのか。
これだから今の若者、中年はだめなのだ。
ピンバック: 徳名人
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毎回毎回コメント0だったので・・・。
周りの内容にコメントがついてるのに毎度0レスだと筆者もモチベーションが下がると思うので
見ているのなら何かしらレスポンスしてあげた方が良いのではないでしょうかね。
ピンバック: 通りすがり