パチンコ日報

ニュースにならないニュースの宝庫 

じいさんと俺の釘 vol.4

「実は昨日藤本が他界しました」

冷たい声だった。それが妙に他人事に聞こえた。言葉が出なかった。ただ話を聞いていた。
じいさんはだいぶ前から癌にかかっていたのだという。

『あいつは新しい会社を興して、今が一番大事な時期だから、山田の気持ちを揺さぶってほしくない。意外と脆い奴だから。ただ俺が死んだら真っ先に知らせてやってくれや』

「藤本はそう言っていました。最後はお金も貰わず北海道や沖縄の小さなホールに行ってホールの主任さんたちに釘を教えていたのです」

電話を切ってドシンと椅子に腰を下ろした。目の奥が熱い。まだ状況をうまく把握できていない。何故だという気持ちが浮かんでは消え、また浮かんでは消えた。隣の部屋では塾生たちが叩く釘の音が響く。思い直したように無表情のまま俺は研修室へ入った。

塾生に投げる言葉がいつもよりきつい。それは自分でもわかっていた。しかし止まらない。
「握りが甘い!」「目線がずれているから角度がずれる!」「ハンマーはもっと優しく握れ!」「お前らそんな気持ちで釘叩こうと思ったら大きな間違いだぞ!」「逃げるな!打ち切れ!」
檄を飛ばし続けていないと自分が崩れ落ちそうで怖かった。

研修の都合で通夜には行けなかった。それでも告別式にはなんとか岡山まで飛べた。すでに式は始まっていて式場の中は黒い人の森だった。じいさんが眠っている棺の中に好きだったゴルフの道具とハンマー、それから一緒に開発した角度ゲージも入れられてあった。

藤本さん、藤本さんと心の中で呼んでみた。そしたら涙がぼたぼた落ちてきた。

こんなのってないだろ。俺の人生を変えたのはあんたなのに何も言わず死んじゃうのかよ。

山田には言うな?ふざけんなよ、かっこよすぎだろ!俺はよ、今まで生きてきて人を信用したことなんか一回もなかった。でも年寄りのあんたが俺の口になってくれって頭下げた時、正直嬉しかった。こんな俺でも人から頼りにされることがあるのかって。だから嫌いな釘も一生懸命やったよ。これから山田塾もっともっとでかくして藤本さんの老後のことも考えていたのに、あんたから借りたこの恩をどうやって返せばいいんだ。

霊柩車がホーンを鳴らして葬儀場を後にした時、俺はその場にへたり込む。心は裳抜けの殻で足に力が入らない。気がつくと藤本さんと一緒に仕事をしていた会社の社長が俺の後ろに立っていて「山田、もういいよ。もうそんなに泣くな」と言いながら俺の肩にそっと手を置いた。俺は無言のまま見上げた。社長は真っ赤な目で俺を見下ろしていた。

 
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じいさんと俺の釘 vol.3

それから一年足らずで俺はまたその会社を辞めた。うだつの上がらない奴だと自分でも思う。今度こそは最後の職場にしたかったのにまた社長と喧嘩別れしてしまった。落ち込んでいると辞めてから三カ月ほど経った頃か、富山のホールのオーナーから連絡が来た。

自社の社員たちに釘を教えて欲しいと言われた。正直、驚いた。研修最終日その社長から言われた。独立して山田塾を立ち上げたらどうか、と。独立なんて考えたこともなかったが、そう言われて断る理由もないのでやってみることにした。幸なのか不幸なのか、そんなことはわからない。ただ流れに乗っかってみりゃいいや、くらいの感じで始めた。

山田塾の旗揚げをじいさんにも伝えた。手を叩いて喜んでくれた。あいつはお前さんの仕事ができすぎるところにやきもち焼いてお前さんを蔑ろにしたんじゃ。そう言って慰めてくれたのは結構嬉しかった。しかし商売は甘くない。富山の仕事から二カ月ともたずに金が底をついた。新幹線代がなくて街金で金を借りて大阪まで営業に行った。

ものの15分で帰された。価格を聞いてきたので五日で二十万だと言ったらそこの若い部長に鼻で笑われた。

「メッチャぼるやん。そんなら俺がやるわ」

悔しくて帰りの新幹線の中で泣けた。認めてもらえなかった悔しさより、自分の非力さが情けなくて泣けた。
 
三年をどうやって過ごしたのか思い出せない。苦しかったのは事実だ。だが三年は続けることができた。そしてある日じいさんから電話があった。

「岡山のホールに話つけといたから営業部長に電話してみい」

継続は力なりとか綺麗事を言う人たちがいるが俺はそんな綺麗事で三年やってきたわけじゃない。ただ生きようと必死にもがいていた。

不思議なものでその話が決まってから一気に申し込みが増えた。なぜなのかはいまだに本人はわかっていない。ある寺の住職が言った。悪いことは自分のせい。良いことは神様のお陰様。それくらいに思っていれば人生大きな間違いはない、と。
 
ある日じいさんがケーキを持って事務所へ来てくれた。

「ようがんばったのお。岡山の方もかなり評判がええぞ。お前さんの詐欺師的な口が功を奏したのかも知れんのお。え?あははは」

「藤本さん、俺経営理念作ったんですよ。パチンコ百年を応援するって。どうすか?」

「お前、まさかカッコつけでそんなもん作ったわけじゃなかろうな?」

「もちろんです。あの時長野のホールで言われた藤本さんの言葉。あれがきっかけですよ」

「そうかい。そりゃ良かった。お前さんは考えすぎるところがあるがそれもええじゃろう」

その日の晩遅くまで俺はじいさんと二人でゲージのあり方を興奮気味に論じ合った。
俺の事務所でじいさんと二人きり。嬉しかった。山田塾にフォローの風が吹き始めた。
 
二年ほど経ったある日、電話がなる。じいさんからだ。

「あ、お疲れさまです。元気していますか、藤本さん」

じいさんとはここ半年ほど連絡ととっていなかった。だから嬉しかった。

「すみません。初めまして。私、藤本の家内です」

俺はなんとなく違和感を覚えた。


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じいさんと俺の釘 vol.2

俺は釘をナメていた。じいさんの釘は執拗で周到だった。寸分違わず全ての釘の角度を合わせる。こんなことをやらされるのか。正直言ってその場で帰りたくなった。

海のゲージは1台あたり300本近くの釘がある。それを200台叩くのだ。しかも三日で。店がリニューアルの工事で昼間も釘が打てるのが幸いだったが、どうしたって時間が間に合わない。

「藤本さん、これ間に合うんですか。結構ヤバい量ですよ」

「最初から弱音か。間に合わなかったら三日間徹夜でやればええじゃろ」

「え!徹夜すか!」

「当たり前じゃ。銭貰って請け負う仕事で間に合いませんでしたじゃ通らんじゃろ」

一日20時間もセル版と睨めっこをしていたら、やっぱりバカらしくなった。叩いているうちに釘の芯を捉えることができず、ハンマーのヘッドでしゃくりながら適当に誤魔化していたその時にハンマーを取り上げられた。

「ちいとはできるかと思っていたんじゃがな。ここまでとは思わなんだ。後ろで見とけ」

それだけ言うとじいさんは隣の島へと移動して行った。
 
腹がたった。その程度の技術しかないのはわかっていた。しかしあからさまに自分を否定されると無性に腹がたった。と言って反発する言葉を持ち合わせない俺は。じいさんの言葉に従うより他に術がなかった。

ぼうっとしながら何時間もじいさんの背中を見ながら立ち惚けているのはかなりの苦痛だった。別に座るなとは言われていないがなんとなく座ってはならないと勝手に自分で決めていた気がする。
 
傾斜の確認を台ごとにして、上段、中段、下段と打ち分ける。最初の元となるゲージの完成までおよそ二時間。ある程度ゲージ構成を決めたら試し打ち。渡りの一本の角度を一度下げる。試し打ち。ヘソ脇のジャンプを一度上げ。試し打ち。と思ったら天釘の上下角を一度下げる。そしてワープを03から06に広げる。試し打ち。俺はある意味感心した。よくこんな面倒臭いことを飽きもせず続けられるもんだな、と。
 
どうやら元ゲージが決まったようだ。あとはそれと同じゲージを199台分作るだけ。途中下手がやっても差し支えない箇所はやるように命じられた。じいさんがすぐそばにいるもんだから手を抜くことはできない。イヤイヤでも続けてやっていると小難しい箇所も少し上手く打てているような気がしてくるから不思議だ。

そのうち周りの音が聞こえなくなる。一心不乱というのはああいうことなのかもしれないと過ぎてから思った。兎に角俺は
じいさんに置いてきぼりを喰わないようそれなりに頑張った。と、思う。

三日目、最終日。予定より仕事は早く終わった。身体はボロボロだが何か言いようのない清々しさめいたものはあったと記憶している。今回は逃げることはできなかった。ホールに設置されている黒いベンチに腰掛けて煙草を吸いながらそんなことを考えていた。今までは面倒臭いこと、嫌なこと、格好悪いこと全部逃げて生きてきた。

「もうすぐ終わりじゃのお。あんた、先生業やっとるだけあって口が達者じゃ。儂は、釘は上手いが喋りの方はからっきしでのお。人間よくできとるわい」

もう一本吸えと自分の煙草を俺の方に箱ごと渡してきた。そしてじいさんもそのベンチに座った。俺はじいさんの煙草に火をつけた。すまんと手刀を切りながらふうっと息をつく。

「儂は若い頃、たいがい悪さをしよったもんじゃ。借金の切り取りや右翼の真似事とかの。それが歳とってくるとの、死ぬ前に何かほんの少しでもええから人様にありがたがられる行いをしてみたくなるもんよ。お前さんにはまだわかるまいがの」

俺は煙草の煙の行く末を見やりながら黙って聞いていた。

「での、さっきも言うた通り、今の儂にできることは釘を教えることしかできん。じゃが、こっちの方がからっきしでの」
じいさんは自分の口元に手を持っていき親指と四本の指をパタパタさせた。

「そこでじゃ。しばらく儂の口になってくれんかのお。儂の技術は全部お前さんに伝えるからそれをこれからの若い人間たちに伝えてやってくれんか。授業でも、ホールでも」

俺はなんで俺に?と聞こうとしたがそれをしなかった。ただこの年寄りの内側にある何か、あまり馴染みのないものを探っていた。



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じいさんと俺の釘 vol.1

みなさま、新年あけましておめでとうございます。
旧年中はありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願いします。

ある人との出会いが私の生き様に変化をもたらしました。その結果が今の山田塾です。
今回からその物語を書き綴ってみましたのでお暇な時に読み物としてどうぞ。

じいさんと俺の釘 vol.1

「山田、お前さんホールに来て人前で釘は打たんがええな。これじゃ釘学校の先生が聞いて呆れるわ」

じいさんは俺の肩越しからスッと手を出し、ハンマーを取り上げた。
じいさん60歳、俺が41歳。人様のホールに行って海物語の釘を打っていた時のはなしだ。

41歳になって何度目の職場なのか数えるどころか、そんな気力すらない。パチンコ稼業でメシ食って、そりゃ真面目に生きてやろうと思った時期もあったと思う。だが現実はそうそううまく行くもんでもない。会社入っちゃ辞め、入っちゃ辞めの繰り返し。この世界にはそんな奴がゴロゴロしている。俺もそのうちの一人ってことだ。

ただ40歳になってまた会社をクビになった時は正直焦った。そろそろ腰据えてかからねえと家族に顔向けができねえ。そんな時だ。この会社に入ったのは。ところがここの社長、俺の何をみて言ったのかは知らねえが、俺に釘の学校作るからそこで先生やれ、ときたもんだ。
 
そりゃあどこかのホールで部長やら店長やらやったこともあるし、客もつけてきた。営業にはソコソコ自信もあった。だがそれはパチンコやる客が多かったから、つまり時代が良かったからこそ、俺みたいなハンパ者でもお偉いさんの椅子に座れたわけで、化けの皮はすぐに剥がれ、社長と喧嘩してクビになるっていうパターンを何回も繰り返してきた。
 
釘は特に嫌いだった。夜中に一人で釘打っていると、なんかバカバカしい気分になる。なんでこんな思いを一年中しながら燻ってんだ。俺は釘が嫌いだし、お世辞にも上手いとは言えねえ。でもやんなきゃしょうがねえし、ま、それが仕事だからボチボチやってきた。
 
そんな俺に釘の学校の先生はねえだろ。俺はひとりごちた。だがそこの社長は有無を言わさず、結局俺を「先生」にしちまった。

俺はね、容貌は柄が悪くて口も悪いが、それでも仕事やるときゃ、結構真面目にやるタイプなんだな。ま、なかなか自分から仕事を進んでやろうとは思わねえけどよ。今回は少し勝手が違った。ほれ、誰にでもあるでしょう。普段はそうでもないけどたまには真面目になってみるか、なんて思うことが。一種の流行病みたいなもんだな。

とあるメーカーから秘密裏に釘のトレーニング方法のカリキュラムをタダで借りてきて、それを参考に2ヶ月かけてオリジナルのテキストを作った。表向きは、だ。それを見た社長と釘専門のじいさんは俺を神の如く褒めちぎった。

へ? こんなもんでか? 世の中これだからチョロいんだよな。と思っていたら人様にものとことを教えるっていうことがいかに難しいかってことを嫌というほど知らされる。知識不足にツッコミが入るし、時間が長えだの小便してえだのとまとまらねえったらありゃしねえ。

それでも不思議なことに五日経つとみんな釘が上手くなって帰っていく。おまけに最後、別れの時に「先生、ありがとうございました」なんて言われた時にはびっくりした。俺に先生と呼ばれる謂れはないはずだが。
 
ある日のこと。

件の社長が藤本と長野まで行って海200台叩いてきてくれ。3日でな」と言った。

藤本とは釘のじいさんだ。出張はなんか楽しみだ。だいいち気晴らしになる。
俺は二つ返事で長野行きを承諾した。安直な思考による行為は時に予想の範疇を超える
結果を生むことになる。東京にいた俺はそんなことを知る由もない。



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パチンコ100年産業を応援する

記事の題目は19年前山田塾を創業した時に私が勝手に掲げた経営理念めいたものです。

パチンコが1930年に風俗営業の許可を下ろした店が名古屋のホールだとネットに書いてありましたので、そこから計算すると100年目は9年後の2030年ということになります。私の年齢が現在61歳ですからその頃は70歳。そう考えると恐らく、いや
間違いなく今の仕事をしていることはないでしょう。

釘を教えるということは法律違反ではないのですが、それを推奨するとなるとまた別問題に発展する可能性もなきにしもあらず、ではないでしょうか。にもかかわらず、この仕事を続けている。そこら辺の是非に関しては私が判断することではない。私は私ができることをやり続けるしかないという考えのもと現在も釘を教えています。

経営理念を一応作った時、合わせて行動指針なるものを二つだけ掲げました。

一つは、山田塾は黒子に徹する
二つは、良いと思ったことは言い続ける

と言ったものです。一に関しては日報さんで記事を書いている時点で表に立ってしまったので守れていませんね。その経緯については来年の記事で綴りたいと思います。

二に関してですが、あくまでも判断基準者は私です。それは釘に関わるものとことを後輩やこれから活躍を期待される若い人たちに伝えるべきだと創業時に決めたものです。

今、私の頭の中にある釘に関するノウハウを文字で起こし、編集し、まだハンマーを握った事のない部下たちへ教えるべくテキスト作りに精を出している企業さんがあります。

私にノウハウを伝授してくださった方は既にこの世にいません。私はその教えを伝えるべく山田塾を作ったのです。そしてその教えは次の代そしてまた次の代へと継がれようとしています。自分一人の力では微々たることしか出来ませんが、彼らがまた様を変えてパチンコ100年産業の生き証人となるわけです。

「人間が謳う志は人様から笑われるくらいではないと志とは言えない」とどこかの本に書いてありました。その点において私が掲げたパチンコ100年産業を応援するという志は、その資格を持っているようです。その思いを決するまでにある人との出会いと別れがありました。私はその人との約束を果たすべく今も仕事をしています。次回には読み物としてその人との物語を記事にしてみたいと思います。

今年は皆様に記事を読んでいただき誠にありがとうございます。
どうか良い年をお迎えくださいませ。



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