季節がうっとうしい梅雨を過ぎたら瞬く間に、暑い暑い夏がやってきた。小学校の頃はあんなに夏が好きだったのに、社会に出て仕事をするようになると途端にこの暑さがたまらなく嫌になる。
ぱちんこ屋で仕事をすると殆どプライベートの時間が取れない。学生の頃あれほど友達とあれこれ思案しながら遊んでいたのに今はそれが億劫である。もっとも連絡を取ったところで会う事も無いのだろうが。遊ぶという事はそこそこの暮らしをしていて、お互いの環境が似通っているから一緒に遊べるのではないだろうか。生活環境が違えばいくら親しい間柄でもその距離はおのずと遠のいていく。
この店に入店してからもう少しで半年を迎える。入って三か月はこの業界の右も左もわからないまましゃかりきになって働いて来た。ちょうどこの頃僕はこの店を辞めようとしていた。しかし人生は自分の思い通りにはいかぬもの。カルティエに機先を制せられ、いきなり主任職の辞令を受けた。
自分の意思を通すことが出来ず、流れに逆らう事が出来なかった。この店にとどまったことが良かったのか悪かったのかなんて未だにわからない。一寸先も見えず、そして今日に満足するわけでもなく、ただひたすらホールを駆けずり回る。案外生きるなんてそんなものなのか、と最近は人生の快楽をあきらめていた。
主任の仕事にも少しは慣れて来て、やくざの世話役からの忠告を真摯に受け止めた僕は、それまでの傲慢さがなりをひそめ日々の本分を全うすべく仕事に勤しんでいる。今日もデスクワークをせっせせっせとこなしていると、カルティエが憂鬱な表情で事務所に入ってきた。
「おはようございます」
と元気にあいさつをしたのだが「ああ」と生返事をするだけで、心ここにあらずの体であった。僕たちが繰り広げたドタバタ劇は一応の幕を閉じたし、最近ホールの客入りもまずまずだし、これと言った事件も当然ないわけであるから、カルティエのこの様子には合点がいかない僕であった。
思い切ってどうしたのか、と聞いてみようともしたがその考えはすぐに頭を引っ込める。安っぽい同情や好奇心から首を突っ込んで、カルティエのご機嫌を更に悪化させる事態を未然に防ごうと思ったからだ。『君子危うきに近寄らず』を決め込んだ僕はコクヨの統計帳への書き込みを続けることにした。
統計帳の書き込みはとても重要な仕事である、とカルティエから教わった。しかし僕はどれほど大切なのかを未だに知らないでいる。作業はいたって単純なもので、ぱちんこ台一台一台のその日の差玉を記入するだけなのだが二百五十台もあるデータを埋めて行く作業は慣れるまで結構骨が折れた。
この仕事を僕に指示する際、カルティエが差玉について教えてくれた。
「いいか坂井よく聞けよ。お客さんが打ち込んだ玉を入り玉と言うんだ。そして機械から出て来た玉を出玉と呼ぶ。差玉とは入り玉と出玉の差のことを言う。わかるか?」
こういう仕事上のノウハウを教えるときのカルティエはふだんの傍若無人さはなりを潜め、いたって真面目でしかも丁寧なのである。
「それでな、その日その台の出玉が入り玉を超えれば差玉はマイナスであり、逆に出玉が入り玉を下回ればプラスの差玉となるわけだ。マイナス差玉の台はわかりやすく言えばお客さんに還元した台であり、プラス差玉の台は店側にとって黒字を計上するという事だ」
あまり算数が得意でない僕はふんふんと生返事をしてわかったふりをしてその場を適当にやり過ごす。
「この(入り玉)-(出玉)=(差玉)のいたって単純な公式からはじき出される数字は釘調整の開け閉めや客の上手い下手、更には温度や湿気などの外的要因 にも左右される。いくらこの俺がこの台を開けて客に還元してやろうと思ってもいろいろな要因が重なり意図通りに出ないこともある」
そんな話は初めて聞いた。打ち手の上手い下手があるのも全く不思議な世界だ。
「ぱちんこ商売のコツはな、客を殺しちゃあいけねえんだ。かといってあんまり玉を出していい気にさせるともっともっとと言ってわがままを言うようになる。 まあ、活かさず殺さずのいい塩梅がどの程度なのかを見極めるのが大事なわけよ。そしてそれをきっちり見極めることが出来たら一人前の釘師だって言う事だな。俺なんかはその代表的な存在だっちゅうことだ、ガハハハ」
この後も開放台(マイナス差玉の台)が何割で回収台(プラス差玉の台)を何割にして残りをどちらにも転ぶことのある遊び台をつくるわけだ、と自慢話は延々二時間も続いたのを記憶している。
僕は赤黒二本をセロファンテープでしっかり巻いてこさえたゼブラのボールペンを取り直し、マイナス差玉の台は赤のボールペンで、プラス差玉の台は黒のボールペンを使用して書き込みを続けた。
がしかしどうもカルティエの様子が気になる。さっきから瞬きもせずに天井の一点を見つめたままでピクリともしない。
「店長どうかしたんですか?なんだかいつもの元気がないみたいで」
思い切って尋ねてみた。
「おっ、そうか。そんなことないけどなあ、いやそんなことあるか」
大儀そうにふんぞり返っていた姿勢を元に戻すとふうっとため息をついた。
「実はな、まだちょっと先の話なんだけどな、うちが二店舗目を出すらしいんだ。この間社長と食事した時あっただろ、その時に『誰にも言うな』って言われて聞いた話が新店舗の話よ」
何気なく、そして普通のありふれた会話がこの後とても悲しい結末を呼ぶことになろうとは思いもよらなかった。ましてやこの会話が物語の終わりを告げる始まりだったとはなおさらである。
つづく

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