「こらああ!坂井、今何時だと思ってんだ。お前主任のくせに何たるざまだ」
「ひいっ!」
いつもより1オクターブも高い声を発して僕は目覚めた。瞬間、周りの状況を飲み込むことができなかった。まだ心臓がドキドキしている。あたりをゆっくりと見わたす。ここは自分の部屋である。そしてまだ夜が明けてないのだろう。
安物のカーテンからはまだ朝の光は入ってきていない。枕元の時計に目をやると、ぼんやりとではあるが時計の針が午前四時を指しているのがわかる。何だ、夢か。しかし夢にしてはかなり現実的な夢だった。
ストーリーは思い出せないが登場してきたのは間違いなくカルティエだった。リアルな怒鳴り声だけはしっかりと今も記憶に残っている。状況の把握ができて少しは安心したもののまだ何か釈然としなかった。
半分も目覚めていない脳を無理やり起こし、中古家具屋で買った安物の卓袱台にあるであろう、ショートホープの箱とBIGのライターをそろそろとまさぐる。自分の目はほとんど開いていない。手探りの手が宙をさまよっているところに煙草より先に触れたものがあった。
その瞬間まずいと思った、が時すでに遅し。昨日つり銭トラブルの加藤さんからもらったべルミーの缶コーヒーを倒してしまったのだ。半分以上中身が残っていた缶が倒れたら大変だ、とばかりに咄嗟にその缶をすくおうとしたのが状況をさらに悪化させた。甘ったるいコーヒーはそのほとんどが布団の上にこぼれてしまった。
何をやってるんだ、と独りごちてふと違和感を感じた。体の感覚がいつもと違う。言いようのない不安に駆られて寝ていたカラダを起こそうとした。そろそろと 起き上がるつもりで中腰になったとき、体が右斜め前によろめいた。さらに不安が募る。
体のネジが2~3本抜けているような感じと言ったらいいのか、目もよく見えないし耳に入ってくる音も何か変だ。僕はハイハイをしながらやっとのおもいで部屋の入り口にたどり着く。そしてぱちんこの景品でとった「たれパンダ」の絵が書いてあるスリッパに足をつっかけ、廊下の共同洗面所へよたよたと歩いていく。
「あ、ああああああ!」
鏡に映った自分の顔を見て僕は驚愕の悲鳴を上げた。昨日子ガメに殴られた右目がどす黒く変色し、目が開かぬ程に腫れ上がっているではないか。僕の叫び声に驚いたのであろう。間髪を入れずに木村くんと関口さんがそれぞれの部屋から慌てて廊下に飛び出す。
「どうしたんでげすか、坂井さん」
「なんだ、何があったんだ」
二人は僕に近づくと同時にああっと声を上げる。僕の左側に立っていた関口さんがなにやら話しかけてくる。
「ん?」
間違いなく彼は僕に何かを話しかけている。しかし口がパクパクしているのが見えるだけで、その声は僕の耳には入ってこない。一瞬その事実を認めたくなかった。嘘ではなく左の耳が聞こえないのである。自分で喋った「耳が聞こえない」の音もどこか不自然に感じで脳に伝わる。
更なるパニック。目も耳も半分しか機能しない。そんな僕はこれから一体どうなってしまうんだ。一瞬にして地獄に突き落とされた気分になった。
「坂井さん、今はまだ病院やってねえですから後で病院行きやしょうよ。あっしが連れてってあげるでやんすから」
右の耳から入ってきた木村くんの響きはとても優しかった。興奮状態だった僕は彼の一言でやっと平静を取り戻すことができた。僕は木村くんとの待ち合わせ時間きっかりに店裏の駐車場へよろよろと足を運んだ。木村くんは既に待機していた。
「あっしの新車に乗せてあげるでげす」と一言言うと傍らに停まっているバイクのエンジンをかけた。それは贔屓目に見ても到底新車と呼べる代物ではなかった。木村くんの言う新車とは最近買った、という意味なのだろうと解釈した僕はそれ以上の追求をしなかった。
「これなんていうバイク」
オートバイには疎い僕は一応礼儀上の質問をしてみる。
「おや、知らないんですかい。これを知らないんじゃぱちんこ屋の主任は務まりませんぜ。この単車はスズキのジーティーサンパチですよ。年代ものですけど、こんな名車はそんじょそこらにゃころがってませんぜ」
得意顔の彼は長々とGTサンパチの薀蓄を語り続ける。僕はその殆どを聞き流した。それよりバイクとぱちんこ屋の主任の仕事とどんな関係があるのか、そっちのほうが気がかりだったがそれも深く追求しなかった。これもどうでも良く僕は早く病院へ連れて行ってもらいたかった。
やっとのことで後部シートへ乗せてもらうことができた。乗り心地が悪くやたら排気音が大きいくせにスピードのでないサンパチくんはそれでも裏道を器用にクネクネと走っていく。木村くんの太い腹に手を回して振り落とされないよう必死にしがみつきながら行く二人のドライブはその乗り心地に反して、決して不愉快なものではなかった。バイクにまたがって感じる風が心地よかった。
「ヘルメット越しでも風を感じるでがしょ?坂井さんバイクはいいですよ。風と一体になれますから」
僕は笑った。わけもなく笑った。そして木村くんの言葉や僕を思う気持ちが嬉しかった。 たしかに見た目の印象というのは社会において大切なのかもしれないが、人間は決して見てくれだけで判断してはいけないな、と彼を見ているとそう思える。
暴走族が良いとか悪いとかはあまり考えたことはなかったが、少年たちは彼らなりのストレスをこのバイクにまたがって発散していたのかもしれない。僕も大人たちが解りえないところで生きることに対するストレスを感じていた自分があった。最もその当時にそれがストレスであるという自覚はなかったが。
つづく

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悟り、昔話で頑張ってますね。
良くわかってますね。
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