僕は部屋に戻った。整然と片付けをされた部屋は妙に殺風景だった。その部屋は懐かしもあり、寂しくもあった。
カルティエの言葉が反芻される。恐らくその言葉がなかったら主任の話なんて聞く余地もなく、「ふざけるな」と言って事務所を出て行ったことであろう。
「坂井よ、今回のことではだいぶ気をもんだだろう。お前は優しいからな。それにまだまだこの業界の全てを知ってるわけじゃねえしな」
僕が事務所で怒り心頭の表情を隠さないでいるとカルティエはそう言って声のトーンを落とした。そしてふうっ、と深いため息をつき、ひと呼吸おいてから「すまん」と僕に詫びた。
「お前はどう思っているか知らないが、俺は弱い人間だ。俺の事情は関口から聞いて知っての通りだ。西田に弱みを握られ金庫の金が紛失した罪を、やってもいない罪をかぶった。俺には守らなきゃならねえもんがある。わかってくれるか。うちのかみさんだけは手放したくないんだよ」
カルティエにいつもの豪胆さは見られない。それでも凛とした姿勢は崩していない。
「関口や松本、木村のことは全部知ってる。坂井、お前が西田とやったこともな。本来ならみんなクビだ。やってはいけないことをやっちまったんだからな。でも俺にはそれができなかった。それというのもあの西田に振り回されてのことだろ。俺にお前らをクビにする資格なんて あるわきゃねえわな」
カルティエは西田を雇い入れた自分の責任だと言い張り僕らに罪はないといった。そして奴を止めることができなかった自分を詰った。金庫の金は西田が持ち逃げしたものでカルティエの奥さんの居所を突き止められたくなかったらお前がやったことにしておけと言われたのが事の顛末らしい。
カルティエは僕に何度も頭を下げた。哀れに見えた。そして僕は彼をずるいと思った。普段は何食わぬ顔をして、平気を装って僕らと接していたくせに、いくら自分の奥さんが大切だからってこういう時だけ自分の都合を持ち出すのはずるいと思う。
でも僕はカルティエを責める気にならなかった。過ちは過ちとして厳然たるもの。罪の大小もあるだろうが人間の心を罰する権利は誰にもないと思う。この会社が一体どんな構造になっているのかは知らないが、一連の不祥事に対して社長が店長を引き続き雇用し、彼にこの店を任せるのであれば、そのことに対して云々する余地は僕にはない。
ただ僕にはそんな現実の話より僕に頭を下げるカルティエが哀れでならなかった。女ひとりのために男はここまで卑屈になれるのか。僕には理解できない。自分の人生を棒に振ってまで庇う女性と一緒にいたいという気持ちも分からぬではないが実感が伴わない。
世の中の大人はみんなそうなのだろうか。人に言えない隠し事を持ちながら、辛い過去を持ちながら平静を装って生きている。まるで何事もなかったかのように笑顔を振舞って、周囲の人々と折り合いをつけながらそれなりの人生を送るのが普通なのだろうか。それが全く理解できないほど僕は子供ではない。
しかし隠されている物語が、みんなが背負っている過去があまりにも重たすぎて僕はそのことを思うと泣き出しそうになる。ローマに勤めている人たちは悲しすぎる。
僕は五人兄弟の次男である。厳密に言えば三人兄弟の長男なのだが、僕が中学一年生の時に母親が僕ら三人を置いて何処かへいなくなってしまってから次男になった。
僕には腹違いの兄と弟がいる。それは小さい頃から知っていた。幸か不幸かそれが当たり前だと思って生きてきた。僕に何の疑問も抱かせなかったのは父親の教育のおかげと言って良いのかは知らぬが、とにかくあっちの家にはもうひとりのお母さんと二人の兄弟がいるという事実を子供ながらに受け止めていた。
僕の過去なんてたかだかそんなものである。欲を言えばきりがない。青春時代に辛い思いもした。あっちの兄弟との差別も受けた。高校までは自分は悲劇の主人公だと思い込んでいたが、韓国に留学して友達の話を聞いてみたら、そんな話はそこらへんにたくさん転がっていて、僕なんかはまだましな方だった。
以来、僕は物事を肯定的に考えることにした。なぜならそのほうが楽だからである。事実今のお母さんに育てられなかったら僕という人間はこうして生きていなかったと思う。
礼儀も礼節も知らず生みの母親同様自分勝手で人の迷惑も顧みずデリカシーのない人間になっていたのだろう。僕は今の母親に感謝している。そして僕たち三人がある日突然やってきて、平和な家庭を壊してしまったことに対して心から申し訳ないと思う。
今まで懸命に隠し続けてきた悲しみがカルティエの話を聞いてとうとう堰を切ってしまった。僕に過去を思い出させたカルティエが憎かった。憎悪ではなく、ただ憎かった。ずるいと思った。
せっかくこの店をやめて新しい道を歩もうと心に決めたのに、あなたが僕の前であんなに頭を下げたら僕はこの店を出て行くことができないじゃないですか。店長、あなたはずるい。
つづく

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