ほとんど寝付けなかった僕は今日が遅番出勤であることを思い出し、昼を過ぎても床から離れなかった。階下では軍艦マーチと木村くんの呼び込みマイクが聞こえてくる。毎日は必ず毎日同じようにしてやってくる。しかし僕の今日という日はいつもとは違う。
昨日の事件と木村くんと関口さんの話が脳裏に焼きついていて、新しい今日という日を迎える準備がまだできないでいる。僕はこの店に勤めて徐々にではあるが、彼らとの距離を縮め日々の暮らしを共にすることによって情も湧いてきた。
しかし店長をはじめとするこの店のスタッフは僕だけが持っている常識や良識の範疇をことごとく打ち破ってきた。さらに言えば決してこの人たちは『良い人たち』ではないのだ。そしてこの様を僕の両親が見ていたら間違いなく『そういう人たちとお付き合いするのはやめなさい』と言うであろう。
ところが僕は何故か彼らの建前ではない本音を通す生き様を見ていると自分が恥ずかしくなるのである。人としての行いの良し悪しは別にして彼らは自分の心に素直に生きているのだと思う。人生の何たるかを知りもしない僕は、言いようのない自己嫌悪感に犯されていて自分が押しつぶされそうになってくる。
完璧なことなどできるはずもないのに、完璧を求める自分がひどく小さな存在に思えてくるのは何故だろうか。本音で生きていく彼らは僕の心の状態を知ってか知らずか、いつでも優しく接してくれる。そしてその温かみは僕がいた家庭では味わったことのないものだった。だからこそ彼らを大切に思いたい。
恐らく逃げていった西田にしてもそれなりの過去があって、それなりの事情があるのかもしれない。そ してそれは彼が『今』というこの瞬間を生きていく上での最上の方法だったのだろう。
そこで僕は思う。どうしてみんな過去に辛い経験や悩みを持っているのに人を騙し、裏切り、迷惑を顧みず、自分本位で生きていくのだろうか。辛さや痛みを知っているからこそ他人様に対してなおのこと正直に生きていかなければいけないという理論には無理があるのだろうか。
このぱちんこ屋という小さな箱の中でみんな寂しくて、寂しくてどうしようもないのに、どうして心を一つにして集まることができないのだろうか。何でもっと心を寄せ合い、互を信じ合い生きていけないのだろう。それは僕だけが考える理想の世界であって、世の中なんか、現実なんかこれが普通なのだろうか。僕は一体どこから来てこれからどこへ行こうとしているのだろう。何度問いかけてみても答えは見つからない。
林夫婦の事件から始まり西田の事件、そしてみんなの苦しげな心情を目の当たりにして、僕は心身ともに疲労困憊の状態にある。たった三ヶ月のあいだにいろいろなことがありすぎた。だから心が折れて体が思うように動かない。
西日が部屋に差し込む頃、ようやく僕は腰を上げる。これ以上考えても頭がおかしくなるだけだ、と吸っていた煙草を乱暴に消し、顔を洗い、身支度を整えてから身の回りの整理にとりかかった。散らかっていた部屋を一人掃除していると三ヶ月分の垢が此処彼処に溜まってい る。緑色のカラーボックスの奥にはとうに忘れていた友達と撮った古い写真が一枚。この部屋にそぐわない様子で貼られていた。大学に通っていた頃の写真だった。
写真の中の僕は屈託のない笑顔で友達と肩を組んでいる。不意に淡く懐かしい匂いがぷうんとした。わけもなく涙が出てきた。近くにある鏡で今の自分の顔を覗くとパンチパーマをかけ、顔はくすみ、目は落ち込んでいた。
考えてみれば毎日が忙しすぎて過去を振り返る時間もなかった。実家にも帰っていない。ぱちんこの喧騒の中で慌ただしく一日が過ぎていく。そしてそれをただ黙ってやり過ごす。いつの間にか変わってしまった自分は、姿かたちこそ大人のふりをしているが心はその大人になりきれず、人間の奥底にあるおどろおどろしい得体の知れないものに触れるたびに人間不信に陥る。
部屋の中は孤独感でいっぱいだった。家に帰りたい。昔の楽しかった頃に戻りたい。そう思ったらいてもたってもいられなくなった。もうこの店をやめることに迷いはなかった。僕はここを出て全然違う仕事を探して、本来の自分を取り戻そうと心に決めた。
つづく

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