パチンコ日報

ニュースにならないニュースの宝庫 

米価下落とパチンコ

連載の途中ですが、番外編を急きょ1本お届けします。

で、パチンコ関連サイトや業界誌が書かない事を書きたいと思います。

店舗のロケーションがお米の産地、特に固定客に米農家が多いホールさんはご一読くださいませ。

米農家の収入が、昨年より平均3割減の可能性が大。

小生は、茨城県のある駅から徒歩2分の所に、農地を数千坪を所有しております。

場所が良いので、すぐに売りたいのですが、農地法のため、容易く売却することが困難です。
所有地は他の目的に転用するには、農業委員会の許可が必要で、売り先にも制約があります。


小生の水田ですが、耕作放棄をせずに、500年続く先祖からの田を守っておりますが、来年からは耕作放棄を考えるようになりました。

理由はこうです。

NHKでも紹介されましたが、令和3年度産のお米の価格が大暴落しております。

先日主要産地農協系の令和3年度産新米価格が出ました。概算金額でありますが、大幅な下落で、株価で言えばブラックマンデー並みです。

NHKで取り上げるくらいの衝撃で、米農家や流通業などの関係者にも衝撃が大きい。

青森では、昨年玄米60キロ約11400円だった新米価格が今年は8000円に。下落幅は約30%になります。
東証株価を28000円とした場合、19500円になったと言うこと。

株価は値上りを期待出来るが、米価は1年間は値上りなんかあり得ません。

なぜ米価が下落したかは、後半に書きますが、去年コロナの影響で値下がりした米価、今年はそれよりも30%も下がったのは農家にとっては非常に痛い。

水田に引く水は毎年、料金を地元の治水委員会に払っております。
田植え前には苗を買い、田植え機や脱穀機や収穫機も必要です。
農薬を撒いたり、手間や費用がすごくかかります。
高価な農業機器をローンを買ったりします。

3割減、サラリーマンに例えたら、年収500万円が350万円に突然なってしまうわけです。

田園地帯にあるホールさんは、以上のような事情を承知して下さい。
農家のお客様の軍資金に大きな影響を及ぼす可能性があります。

実際、秋田・青森・岩手・茨城などに米農家の親戚がおりますが、みんな暇つぶしはパチンコ。手軽に時間潰しが出来るのはホールしかないのですね。

皆、口を揃えるのは「来年はパチンコなんかやれる余裕がなくなる」。

田園地帯のホールさんは分かると思いますが、農繁期に天候が荒れた日は、朝から稼働が上がりますよね。

小生は、駅前店、住宅街店、主要幹線郊外店なと経験しておりますが、田園地帯のホール店長を初めて経験した時、天候悪化の日は、朝から稼働が8割になり、夕方まで9割稼働が続いたのには腰を抜かしました。

娯楽が少ない地域ではパチンコが唯一の娯楽だったりするのですよ。
天候が悪い日は農家さんが総出でホールへ来店するんです。

北関東地区のコシヒカリ価格は、9000円から9200円になりそうですが、それでも超下落です。
となり同士の栃木と茨城では、農協が出した暫定価格の差が約1千円ありましたが、安い方へ引っ張られるようです。

さて、米価下落理由ですが、一言で言うならば、コロナの影響による米余りです。

昨年の外食産業の消費の落ち込みにより玄米がだぶついているのです。
それによって、米価下落へ繋がったのですね。

高級和牛などは外食産業の低迷で、食品がだぶついている話をよく聞きましたが、米も一緒なのです。

(今後、稲作経営を危ぶむ声も出ています。耕作放棄です。うちも耕作放棄が選択の一つになりました)

昨年の米の在庫解消をするならば、今年の価格を下げるしかないのです。

この傾向は、来年も続くと思われます。





人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える


※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。


ホール内中和戦略 その4

パチンコ業界は、規制と言う名の中和戦略の繰り返しで生き延びてきた業界だ。
ハッキリと簡単に言えば、曖昧さに慣れた業界だからだろうな。

この曖昧の筆頭は、三店方式だろう。
(過去に警察は、三店方式は直ちに違法では無いとしていた)

パチンコ業法がなく、風営法の下で長年慣れだ業界だ。
だから曖昧だとも言える。

利権や、所轄によって判断の差がある。
これが曖昧さの理由の一つかな。

慣れ
ダレ
崩れ

慣れると、ダレるのが常だ。
ダレてくると、必ず崩れる。

パチンコ業界は、慣れとダレを行ったり来たりして、生き長らえてきた。
規制やルールの緩急を駆使して、業界を長生きさせる方策を長年やってきた。
慣れとダレの曖昧さ。

これが通用したのは、遊技人口が多いからであったからこそ。

3000万人いた遊技人口が「レジャー白書2021」によると、とうとう710万人になってしまった。

前年比で180万人減は、もう曖昧さを使うには無理なくらい遊技人口が下がったと言える。
710万人に甘えていたら、あっという間に600万人に絶対減る。

パチンコ日報では、何年も前から遊技人口問題について、取り上げている。

4年前のパチンコ日報には、次のようなエントリーが掲載されている。

業界として、遊技人口を増やすならば、具体的な数値を業界団体が示せ!と言うエントリーだ。

遊技人口が減ってきたにも関わらず、業界として、長年その数値目標が出てこない。

数値と方策を示す事が出来ない結果が710万人だ。
コロナの影響があったにせよ、710万人は赤信号が点滅するほど危機的状況だ。

遊技人口が3000万人あった時代は、1円5円なんか存在せず、すべて4円20円の時代。
遊技人口710万人の今、1円5円が主力になっている。

ならば、4円20円の遊技人口は、3000万人時代にくらべたら、どれだけ減っているか。

某メガバンクと金融コンサルが、あるホール企業に示したデータに、「1円パチンコの副作用が今の業界を蝕んだ」との項目がある。

日本マクドナルドが藤田田会長時代の2002年、59円バーガーを販売したことがある。一時はデフレ時代の勝者として持て囃されたが、デフレ終了宣言で値上げすると客足が戻らず、赤字に転落。袋小路に入り藤田会長は辞任に追い込まれる。アップルから転身した原田泳幸社長は「ハンバーガーの安売りは大失敗だった。ハンバーガーのイメージを崩した」と安売りを否定した。

つまり、貸し玉を料金を4円から1円に下げたことは失敗だった、ということだ。

遊技人口を増やす方策、目標数値も示せない業界に未来は無い。
神風が吹いて、一時的に景気が回復したら、遊技人口も増えるだろう。
でも、それは一時的な事。

何が必要なのか? それは後で記述する。

参考までに、こんな資料があるので、興味のある方はどうぞ!

日本遊技関連事業協会データ

さて、本題だ。

ホールの中和に成功した、そのホール企業は、中和のための薬剤不足に悩み始めた。
アルカリ性薬剤=羽根物不足だ。

多様な羽根物がメーカー各社からリリースされていたが、その機種数が減少してきたのは周知の通り。

また、羽根物は、羽を鳴かすからこそ面白いのだが、交換率アップに伴い、中々鳴かす事が出来なくなった。

当該ホールでは、羽根物で中和する方策が取れなくなった。

代わりに目を付けたのが遊パチだ。

遊パチをアルカリ性として積極的に使用。競合店より、遊パチを甘く使う事で、来店客を増やして行った。

しかし、その中和方法も、限界が来た!と経営幹部が漏らすようになった。

酸性ホールに投入する、アルカリ成分がないと言う事だ。

酸性割合が高くなると、あちらこちら腐食してくる。
さて、どうする?

つづく



人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える
※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。

昔のホール内中和戦略 その③

酸性を中和するためにアルカリ性を入れる。

オーナーは元々地元の名士だったので、悪評を極端に嫌がった。

「セブン機の客層でお店の雰囲気が悪くなった」との声はお客様や知り合いから入るようになった。

店側も反省するべき点は多数あった。
まっさきに、やめたのは煽りマイクだった。

まず、煽りマイクは、セブン機が無い時代は、一定の時間だけ行っていた。しかし、セブン機が導入されると、朝から晩まで、「185番台のお客様フィーバースタート」と放送。

お客様層が変わったと言われたが、店舗の雰囲気を変えた責任はマイク放送だと分かった。

しかし、である。

これを不評に思うお客様もいたのは確かだ。言い方は違ったが、出ている雰囲気が全くないと。
他店では煽りに煽りまくる放送をしているのに、それがなければ、セブン機が出てないと思われても仕方ない。

つまり煽りマイクの復活であった。

すると、中和させるには、他の戦略を考えるしかなくなる。

当時は、売り上げ粗利が凄く見込めるため、セブン機を大量導入していた。混在したのは、一般機や権利物や羽根物。

そこで、テスト店を選び、人気の羽根物の比率を上げる事にしてみた。

当時は、組合申し合わせで300台までの店舗だった。300台を例に話を進めると、店の通路の数にもよるが、羽根物を50台から60台を最低ラインとして設置することにした。

そして、最初は割数を上げることに。

それが成功した。徐々客層が変わって行く。

店内頭取りは、数以外に、男女別、見た目による職種別を大雑把に収集していた。

だから、客層の変化が良くわかった。羽根物コーナーに増えたのはサラリーマン層。驚くくらい増えたのだ。

こうした戦略を10年以上に亘り続ける。

競合店は、セブン機にチカラを入れていたが、そのチェーンは、セブン機以外にもチカラを入れたので、結果地域一番店が増えた。

当時15店以上あったと記憶しているが、その戦略が良かったのか、10店以上は地域1番に。
今で言う差別化戦略である。

羽根物の名機と言えばゼロタイガーであるが、他にはグラマンやムーランバカチョン、フラッシュなどがあった。

後に西陣のレッドライオンが出てくる。このレッドライオンの稼働が5.5千発になった。

酸性セブン機に注力しながら、アルカリ性羽根物にも注力した結果、中和されて、相乗効果が生まれた典型的な成功例であった。

この戦略は時代と共に変更されて行く。

つづく



人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える
※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。

昔のホール内中和戦略 その②

当時のセブン機には、ストップボタンが付いてました。

攻略雑誌の誕生前です。

ストップボタンでの攻略が可能な時代でした。

私が最初に攻略したのは、西陣のターボXとターボL、ターボR。
当時の主流機で、全国どこにでも入っていましたね。

ボタンで攻略出来ました。
デジタル数字の最初の数字を7で押せば7で止まります。

発売は1981年。
正式名称は、超特電デジタルパチンコ機「エレックス ターボX、ターボL、ターボR」。

ターボXを例に説明すると、3桁のデジタル数字が3つ揃うと大当たりでした。
百の位のデジタルが7の時にボタンを押すと、7で止まりました。
あの早いデジタル回転では、7なんか通常は見えません。
見るのは全体ではなくて、2本の棒だけです。
右上の角だけ見るのです。

右上の角が同時に点いた時が7。


同時に点いてない


点いている


点いている


点いていない


点いていない


点いていない


点いた!


点いている


点いている


点いている


点いていない

右上の角が同時に点いた瞬間を目で確認する訓練をすると、7で押せるようになります。7は他の数字と違い棒が2本だけですから判別しやすいのです。

百の位を7に出来れば、あとは運任せです。あと二つが勝手に7が揃うのを待つ。

777が大当たりですが、
77?、つまり、頭の2つが77になると小当たりで100玉くらい出ました。

データを取ると、77?が約25回そろうと、つまり、77?が揃ったら約25分の一で777になりました。

攻略した三共フィーバーは、ストップボタンを押して、ボタンを離さなければ、ドラムが回りっぱなしになり、止まらないのですね。

これを偶然発見した時は小躍りしました。
つまり、ボタンを離した瞬間にドラムの一番左の絵柄が止まるタイミングが測れたからです。

ボタンを離した直後、1秒くらいで左のドラムが止まるのです。

ボタンを離さずに回しっぱなしにしていると、3つのドラムが少しづつズレることにも気付きました。
そのズレの、あるタイミングで、ボタンを話すとドラムが3つ777になりました。

三共フィーバーは、ドラムの上にデジタル数字があり、ドラムが777で、デジタルが7になって初めて大当たりでした。
ドラムの777だけだと小当たり。

三洋のパニックもボタンで攻略できました。
パニックは、ボタンを離した瞬間にデジタルが止まることに気づきました。
ボタンを押した瞬間に反応するのではなく、離した瞬間に反応。
これを利用すると、小当たりが良く出て、小当たりだけで3千個を出した事が何回もありました。

攻略話が長くなりましたね。

当時学生だった私は、16時15分に中央線の駅前店「D店」に毎日行ってました。
それから4時間くらい遊技して、毎月コンスタントに40万円。
半年で300万円の荒稼ぎ。

ホール側の対抗策は、ストップボタンの線を断線。
そんなホールが増えました。

また、三共フィーバーは、設置された機能を改修。
改修された遊技機には、セル板右下に改修を意味するシールが貼られました。
そして改修後は攻略出来ませんでした。

後にボタン機能は廃止になりました。
今のセブン機の姿になったのです。

以上の時代は、16ラウンドや10個規制もなく、やりたい放題でした。
規制があったと言えば、スタート口は、全体の入賞口の3分の一以下。
入賞口が10箇所あれば、スタート口は3個。ターボは3個の入賞口がありましたね。

想像してみて下さい。
大当たりすると、足元にはバケツが積み上げられるよですよ。
その光景は、まさに鉄火場。
タバコの煙に、ガンガン鳴る軍艦マーチ。そして足元には金属バケツ。

のどかな昭和歌謡が流れるホールが、ギャンブル場に変わろうとする時代。

お客さんの客層も変わりましたね。

他に変わったのは、オーナーのクルマが、カローラやクラウンからメルセデスベンツに(笑)(半分冗談です)。

超特電デジタル機が誕生した日から、パチンコはギャンブルへ変身したのです。
パチンコ=ギャンブル、の誕生です。

超一般機(チューリップ台)や電役機まではパチンコは本郷猛、超特電デジタル機以降は仮面ライダーってところでしょうかね。

娯楽場だったホールにギャンブル場の色が着き始め、やがて雰囲気が殺伐とし始めます。
ホール組合は、セブン機の台数の上限を自主的に設定したりしました。
遊技機にも規制がかかり、16ラウンド10カウント規制が出来たり、おまけチャッカーを廃止したり。

それでもパチンコは射幸性が高って行きました。

出るホールに住み着いた、超一般機や羽根物のプロ以外に、セブン機のプロが発生。

ホールの客層が急激に変わりました。

先に紹介したホールオーナーは、地元客からの苦情に敏感でした。
ギャンブラー客の増加により、ホールの雰囲気が悪くなったとの苦情が増えました。

ホールは気付かないうちに、雰囲気が中性から酸性に変わっていたのです。

酸性(ギャンブル)を中性に戻す。
その戦略は、アルカリ性液体をまぜることでした。
アルカリ性=羽根物導入です。

つづく



人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える

※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。

昔のホール内中和戦略 その①

大変ご無沙汰しております。
元店長です。

先日、伸びているホール企業の二つの共通点を聞きました。これに関しては、営業1号さんが記事を書くと思いますので省きます。

この二つの共通点を聞いた時に、思い出した話がありましたのでご紹介致します。

非常に過去の話で恐縮です。40玉交換時代の話です。

現在、パチンコはギャンブル、ギャンブルと言われていますが、いつ頃からパチンコはギャンブルと言われていたのか?

最近の業界人は知らないでしょうね。

私が業界に入った約30年前、40玉交換でラッキーナンバー制の時代に既にギャンブルお言われていました。セブン機の出現がギャンブルの始まりのきっかけですね。

等価交換へ向かって突き進むと、ギャンブル性アップに拍車がかかりました。

異業種から参入した、ホール企業があります。業界人ならば一度は名前を聞いたことがある大型ホール企業です。マルハンさんやダイナムさん、キコーナさんレベルではありません。

まだ、世の中にセブン機がない時代に1号店を出店。地元名士の経営ホールです。だから意地でも失敗は出来ないし、出ないホールとも言われたくない。

1号店グランドオープンの初日。出し過ぎて90分で閉店になりました。

総台数300台。機種は、チューリップ台200台、電役台100台。スロットはありません。
チューリップ台は全台打ち止めになりました。

それでもオーナーは大満足だった、と当時の話を聞かせてくれました。
開店釘を叩くメーカーの営業マンには、2時間で打ち止めになるように指示。チューリップ台2000個、電役台3000個終了でした。

貸玉3円の時代で、交換率が1.5円。
つまり、チューリップ台を打ち止めにしても3000円でした。今と物価が違いますが、こんな時代だったのです。まさにパチンコは娯楽の殿堂と呼ぶに相応しいレジャーでした。

その店舗が他よりも真っ先に飛びついたのがセブン機です。オーナー自ら、先行導入したホールへ出向き、試打をして、その場で100台の導入を即決しました。

しかし直ぐには導入出来ないと知りました。当時の補給機は、セブン機に対応していない、ゆっくりとした補給機だったからです。島ごと全て設備を変えました。

その頃は、貸玉3円から4円に。交換率は40玉交換に。

今の業界人の大半は知らないでしょうが、当時のセブン機は、一回数字が揃うと、打ち止めまでまっしぐらでした。30秒毎に開くVゾーンに玉が入る限りは、定量まで出っ放し。

セブン機の営業方法は、大きく分けて2通り。
打ち止めについては、このスタイル。

①完全定量制

②店側が設定した定量にお客様側のプラ打ち込み数をプラスしたもの

つまりまだラッキーナンバー制なんか無かった。

当時の玉箱は、1500個とか3000個が入るものはありませんでした。
何を利用したと思いますか?

金属製のバケツ!



バケツを足元に置いて、それに玉を入れるんですよ。昔を知る業界人は、あの光景は懐かしいでしょうね。

従業員の煽りマイクは「253番台のお客様やりました、三共フィーバースタート!」とアナウンスと同時に足元にバケツが2個置かれたり。とりあえずは2個。

「188番台のお客様!西陣ターボ、バケツ5杯目に突入おめでとうございまーす!」

当時バケツ10杯なんて光景もありました。10杯だと15000個から20000個。バケツの大きさや玉の入れる量にもよりますがね。

以上のような思い出を読むだけでも、ホールが鉄火場だった事がお分かりだと思います。

つづく



人気ブログランキングへあなたのポチっ♪が業界を変える


※コメントには必ずハンドルネームを入れてください。匿名は承認しません。コメントがエントリーになる場合もあります。