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父親が遺した自叙伝を人生のバイブルにする2代目

元ホール経営者の父親が遺した自叙伝「捲土重来」が、今では人生のバイブルになっている2代目がいる。

父親は在日だった。戦後、屑鉄回収から始めて、その資金を元手に友人と2人で38台のパチンコ店を共同経営したのが業界参入のきっかけだった。1店舗を19台で分け、それぞれが店長であり経営者。釘調整もそれぞれが担当した。当時は本当に娯楽の少ない時代で、出玉はタバコやチョコレートに替えるのが、庶民のささやかな楽しみだった。

その後2人は独立してそれぞれの店を持つことになる。昭和40年代は庶民の娯楽としてパチンコは愛され、違法だが当時は高校生が打っていた。

一番の経営危機が昭和53年に登場したインベーダーゲームだった。勝っても景品にも替えられないゲームに日本中が熱中して、ホールには閑古鳥が鳴いた。

ブームは2年ほどつづいたが、パチンコ業界にはゼロタイガーやフィーバーなどの画期的な機種が登場したことで、パチンコ業界には捲土重来が巻き起こる。

19台からスタートしたホール経営は、パチンコ黄金期に乗って、100倍の台数まで拡大した。ホールオーナーは皆が豊かになった。パチンコ絶頂期に上梓された自叙伝の中に「こんな商売が100年も続くはずがない。近い将来パチンコは必ず衰退する」と書かれていた。

CR機が登場してさらに売り上げが拡大している時期。業界全体が栄華に酔いしれている頃で、聞く耳を持つ業界人は誰一人としていなかった。

オーナーが乗るクルマが超高級外車に代わっても、そのオーナーはトヨタで押し通した。

クルマだけではない、おカネがあると愛人も囲ったりするが、生涯奥さん1人だった。それはいつしか業界が衰退する時の自分への戒めでもあった。

一番危惧したことは、庶民のささやかな遊びだったパチンコがギャンブル化したことだった。自叙伝の中にはギャンブル化を戒める内容も書かれていた。一度落ち目になると二度と這い上がれなくなる。復活させる方法が分からないなら、「しがみ付かないことが肝要である」と指摘していた。

屑鉄を回収していた時代、いつも地面を見て歩いていたので「地見屋」と呼ばれていた。落ちたものを見つめながら、捨てた人のことを考えた。当時から捨てられないようにすることの重要性に気づいていた。

先代の死後、ホール経営を引き継いだ2代目は、この自叙伝を読み返し、一番高く売れる時期に全店舗売却。飲食店経営を始めた。

「自叙伝を出版した時は内容をバカにしていたが、オヤジの本がなかったら今頃はパチンコで損していたかも知れない」(2代目)というように、今ではすっかり人生のバイブルになっている。それ以来、市井の人で、自費出版している自叙伝を探し求めるようになり、現在は100冊ほど集めている。

会社の規模ではなく、一国一城の主になった人の自叙伝は、読んで経営の参考にもなるからだ。

ちなみに蒐集した100冊の自叙伝の中に、筆者が編集に携わった1冊が含まれていた。


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