カルティエの奥さんはいつも控えめでそしていつもニコニコ笑っている印象しかない。スタッフに対しても腰が低いし、言葉遣いも丁寧だ。そんな楚々としたあの奥さんはチビデブパンチのどこを気に入って一緒になったのか全く不思議である。
カルティエが奥さんを大切にする理由は当然のこととして、奥さんがカルティエと一緒に暮らせる理由は甚だ理解が不能な事態なのである。
僕は今まで奥さんとあまり言葉を交わしたことがない。いや僕だけではなくスタッフのみんなも恐らくそうであろう。彼女は絶えずつつましく目立たず時にはその存在すら忘れてしまうほどの佇まいであった。
僕は考えてみる。カルティエが新店に行ってあれほど溺愛している奥さんと別れるようなことになれば、本人が言っていたように自分の人生も簡単に幕を閉じるのではないか、と。カルティエの不幸はやはり僕の望むところではない。
「店長、やっぱり新店なんか行かないほうがいいですよ。いや、行かないでください。僕も店長からまだまだ教えてもらっていないことがたくさんあるし、だいいち店長がいなくなったら寂しくなるじゃないですか。僕、店長も奥さんも好きだから。一緒にここで仕事したいです」
咄嗟に出て来た僕の言葉、それは本心だった。
普段はカルティエの悪口を言って悪態ばかりついていても本当は、僕はこの人が好きなのだ。見てくれは決して良くないけれどカルティエには温もりがある。豪快で粗野に見えても実は繊細で絶えず周囲を気に掛けている。
スタッフのみんなもカルティエを酒の肴よろしく面白おかしく揶揄するけれど、それは決して悪口などではなく言ってみれば愛情の裏返しなのである。僕は自分の思いを吐露すると何故か感極まってしまった。
「ねえ店長行かないですよね。行かないでくださいよ」
鼻の奥がつうんとして目頭が熱くなる。思いがけずの涙声だった。
「俺 この店に入ってまだいくらもたっていないっすけど、仕事もろくにできないっすけど、ここで店長から教わったこと、たくさんあります。仕事がきつくて何回も辞めようと思いました。ホールでお客さんと接するのが嫌で、嫌でたまらなかった時もありました。普段は怒ってばかりいるけれど僕が本当にダメになりそうな時、店長は必ず助けてくれました。それにみんないい人たちばかりだし、単純にここが好きなんすよ。俺は他に行くところも無いし、店長と離れるの嫌です。だからここにいてくださいよ。ね、店長」
涙はとめども無く流れた。止めようとも思わなかった。自分で口にしてからカルティエのことが本当に好きなんだと実感した。
「坂井、おまえ馬鹿じゃねえのか。さっき行かねえって言っただろ。行かねえよ」
カルティエはもう泣くなと僕の両の肩をそのごつい手で優しく包んでくれた。
「半端なのはお前だけじゃねえよ。俺だって普段は威張り腐っているけど将来のこと考えたら不安で不安でしょうがなくなる時がある。どんなに店の為に働いたっていいとこ店長どまり。これから六〇の定年までずっとここで働くなんて想像もできねえし、かといって今すぐどっかに行く宛てなんかあるわけもねえ。そんなこと考えたらおめえ、俺だって夜も眠れなくなる。若い頃お袋の言う事聞いてもっと勉強しときゃあ良かったぜ。そうすりゃあもうちっとましな人生だったかもしれねえしな。だけどそれも今となっちゃ後の祭りってわけよ。今更後悔したって糞の役にも立たねえしな。けどよ、坂井。俺はここで働いて救われたなって思うんだ。それはな、俺も含めて半端者で仕事もからっきしダメで根性無しの集まりだけどよ、お前らいい奴ばっかりだもんな。俺はそんなお前らと仕事できることを本当に嬉しく思ってるぜ」
カルティエの目も潤んでいた。
泣きながらふと心にこだまする言葉がある。
「いらっしゃいませいらっしゃいませ、いらっしゃいませ。本日も当ホールぱちんこローマへご贔屓ご来店いただきまして誠にありがとうございます、ありがとうございます。ぱちんこ必勝法は一に頑張り、二に粘り、三四がなくて五に根性。くるくる回るかざぐるま。色鮮やかな盤面にゃあ、踊る踊る銀の玉。本日もお客様のご来店を心よりお待ち申し上げておりました。ぱちんこはこの世の憂さの捨て所。はい、お父さんもお母さんも、おじいちゃんもおばあちゃんも、はいそれから隣のお兄ちゃんお姉ちゃん、よってらっしゃい見てらっしゃい。日ごろのストレス解消にほんの少しの息抜きにとはい、よってらっしゃい見てらっしゃい。本日もいたる所にご幸運が、いたるところにラッキー台がお客様に甘い甘い吐息を投げかけてのお迎えでございますれば、はいどうぞ奥へ中へ、中へ奥へとぐっとお進みお入りくださいませ。さあ、いらっしゃいませいらっしゃいませ、いらっしゃいませ」
カルティエから教わった呼び込みマイクの一節が今日はやけに物悲しい。
つづく

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何話まであるんすか?
単純に気になりました。
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