カルティエと木村くんがそんな状況になっているとは全く知らない僕は、天玉うどんとお稲荷さんを交互に口の中に入れ、サムちゃんと子ガメの関係について思いを巡らせていた。
「子ガメってさ、サムちゃんより年上でしょ。だのに何であんな低姿勢なの」
思い切って聞いてみた。どう考えてもあの傍若無人の子ガメの取る行動が不可解でならないのである。
「ああ、俺さ小学校の時から空手やっててさ、子ガメは年上なんだけど入門してきたのがずうっとあとでさ、だから後輩に当たるわけよ」
サムちゃんは洗い物をしながら事も無げに答えてくれる。
「それにあいつあんまり強くないしね。普段やってることはハッタリだよ、ほとんどがね。あいつは弱い奴にはめっぽう強いけど強い奴にはからっきしさ。いるだろ、そういう奴って。練習試合で俺に負けるまではなんか年上風ふかしていきがってたけどさ、試合で俺に負けたら何か急にへいこらし始めてさ、結構鬱陶しかったよね、若いころはさ」
淡々と話しているせいか彼の話に嫌みなところがない。僕はそうだったのかと改めて感心した。やくざまがいの乱暴な性格の持ち主である子ガメでもサムちゃんの威厳には歯が立たないのだろう。何か子ガメがそんなに怖くなくなったような気がして僕は少し清々とした。
しかし僕はサムちゃんの本当の凄さをまだ知らない。そしてそれはのちほど起こる絶体絶命の危機に瀕したとき、彼本来の姿を目の当たりにする。喧嘩無頼、強力夢想の在日朝鮮人二世、金三守(キムサムス)。人呼んでうどん屋のサムちゃん。これは自分でつけたあだ名だそうだ。笑えるけど格好いい。
サムちゃんにありがとうとお礼を言い満腹感に心地よさを覚え、店を出てからはてどうしたものかと思案する。すると駐車場の遠くから一台の車が僕に向かってライトをチカチカさせてやってきた。カルティエの車であることは一目瞭然だった。
助手席には大柄の人間が乗っているシルエットがぱちんこローマのネオンに映し出される。僕は空腹を満たしたことで木村くんのことなどすっかり忘れていて、先ほどまでの心配事は自分の頭の中に存在すらしていなかった。
その軽薄な思考回路によって下された結論は、こうしてカルティエに迎えに来てもらい、二人仲よく車に乗って帰って来たのだから大したことはなかったのだろう、良かった良かったという事になる。
しかしそれは自分に対する都合の良い言い訳で、僕は自己嫌悪をおぼえた。調子良すぎるよな、と。
「おお、主任。なんだお前心配して俺たちを待っていてくれたのか」
「いえ、ああ、はい、まあそのう、そうですね」
意外なほどのカルティエの笑顔を目の当たりにして僕は、僕の僕に対する嫌悪感がさらに深まる。
「おい、木村。主任が心配して待ってるぞ。だからよ、お前そんなしょげ返ってないで元気出せよ。な、やっぱりなんだかんだ言っても持つべきものは同じ釜の飯を食ってる同僚だよな。俺は嬉しいぜ。な、木村お前も嬉しいだろ。がははは」
ほとんど音も立てずにそろおっと車から降りて来た木村くんのその姿は本当に痛々しかった。
僕はかける言葉を失った。木村くんのそれは単なる打ち身や打撲の痕ではなく、明らかに誰かに暴行されたものであることが一目見てわかった。
「坂井主任、ご心配かけてすいやせん。アッシはもう大丈夫でげすから、ご安心下せえ」
僕は言葉を紡ぐことが出来なかった。ただ木村くんの顔をじっと見つめていた。顔はジャガイモのようにボコボコに腫れ上がり、右目は試合を終えた後のボクサーみたく完全にふさがっている。やや離れた場所にあるお店の水銀灯が照らす彼の姿は可哀想というより恐ろしかった。
「うん、木村くん本当に大丈夫?」
やっとの思いでそれだけを言った。こんな状況でそれしか言えない自分がやっぱり情けなくて、彼に対してすまないという気持ちでいっぱいになった。僕はうどんを食べたことを今更のように後悔した。
「ところで坂井、お前口に何くっつけて歩いてんだ?」
言われてみて唇をぬぐってみた。顔色が変わるのが自分でもわかった。わかめだ。うどんの汁を最後まで飲み干そうとしたときに、どんぶりの内側にへばりついていたわかめを食べるいやしい僕の光景が再現フィルムのようにゆっくりと脳裏をよぎる。
「あん? それわかめ、じゃねえのか」
僕は顔から火が出るほど恥ずかしかった。そこに穴があったら入りたいとはまさにこのこと。
咄嗟に返す言葉を持たない僕にカルティエは
「なあ、木村。さっきのは取り消しだ。お前がこんな目にあってるっちゅうのにこのバカ主任は呑気にうどん食ってたんだとよ。世の中世知辛くなったもんだねえ」
と吐き捨てるようにして言った。彼はぷいっと背中をみせると「あ~あ」と聞えよがしにため息をつきながら店に入って行った。
木村くんのボコボコになった顔が恐らく笑ったのだろう。だけどその顔がとても寂しげに見えたのは気のせいだったのだろうか。僕は彼に対して「ごめん」というのがやっとだった。
「気にしねえでいいんでげすよ、坂井主任。あっしは何とも思ってねえですから」
中学時代煙草を吸っていて警察に補導されたことがある。家に通報され親の顔が浮かんだとき、本当に後悔した。何て事をしてしまったのだと罪の意識からおしっこが漏れそうになった。なんで僕は煙草なんか吸ったんだ、と煙草を吸ったことがとても悔やまれた。
今日の僕はそれに似た感情だった。あそこで天玉うどんさえ食べていなければ良かったのに。しかも僕はお稲荷さんを二つも食べた。いや最後のわかめなんか食べなければよかったのだ。わかめさえ食べなければ、と自分の卑しさを呪った。ごめんね、木村くん。
つづく

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