「なんか湿っぽい話になっちまいましたねえ」
木村くんが人差し指でこぼれそうになった涙をそっとはじいてみせる。
「お前はまだいいよな。実の親がそばにいてよ。俺の親はいま刑務所にいるんだぜ」
そういった関口さんが缶ビールの残りをぐいっと煽りポツポツと語り始めた。
彼の家は生まれつきの貧乏であったという。物心ついて時から彼には父親の記憶はなく、むしろ母親と二人で暮らすことに何の違和感もなかったらしい。貧しいながらも母親と幸せな幼少期を過ごせたことが唯一の財産ではなかったかと彼の話をすべて聞き終えたあとで思った。
国から生活保護を受け貧しい生活を続ける中、その生活の破綻の始まりは彼が中学校を卒業する間際に起こった。今まで酒など飲んだことのない母親が、夜遅く酩酊の姿で帰宅したのを今でもはっきりと思えているという。普段の母親からは想像もつかないほどの醜態で、泣きわめき自分の不幸を罵り、気分が悪いと言って嘔吐を続ける母親を見て、関口さんはただその場に立ちすくみ何故かそんな母親に嫌悪感を抱いたと言う。
その日以降酒を飲んで帰ってくる日が続き、時には男を家の前まで連れてくることもあった。やがてその男は家に上がり込むようになり、当たり前の顔をして彼の家に泊まり込み挙句の果てにその家に住み着いた。もともと無口で内向的な性格の関口さんは、文句の一つも言えずただ耐えるしかなかった。
ただいるだけなら良かったのだろうが、その男はやがて関口親子に暴力を振るうようになる。それでも耐えるしかなかったのだ、と関口さんは付け加えた。彼は自分の家の状況を考え高校進学ははなから考えていなかった。特にその男が家にいつくようになってからは、卒業式が来る日だけを心待ちにしていた。
埼玉の工場に就職が決まっていたため、卒業したらその日に家を出る決心をしていたのだと言う。しかしその目論見は意外な結末によって反故にされる。卒業式が終わり、式に来てくれない母親を恨めしく思いつつも卒業の証を一刻も早く母に見せたくて、彼は家路を急いだ。
家の近くまで走っていくといつもと違う、何か怪しい胸騒ぎが彼をせっつく。家の前は人だかりで騒然としていた。ただならぬ雰囲気が彼を圧倒する。と、自分の家の中から救急隊員が大声を張り上げ 「どいてください!道を開けてください!」と緊張の面持ちで走り抜けた。
彼は恐る恐る家の敷居を跨いだ。部屋には力なくへたりこんでいる母親がいた。母の顔や体全身にはおびただしい量の血がベッタリと付着しており、膝下には包丁が無造作に転がっていた。返り値を浴びて真っ赤になっていた母親の顔だけが不思議なくらい真っ白い色をしていたと関口さんは努めて冷静に語った。
「結局貧乏暮らしの母親が金欲しさに飲み屋で仕事を始めて、タチの悪い男にひっかかり、とどのつまりが刃傷沙汰におよんだ。よくある話さ」
最後に苦しそうなうすら笑いを浮かべてそう言い切ると、関口さんは無言で部屋から出ていった。
「坂井さん、関口さんかわいそうでげすね。あの人の話、あっしは初めて聞いたでげすよ。でも貧乏って人を狂わせるって知ってましたか。もしあっしが坂井さん家みたく金持ちだったら暴走族には入ってなかったでげすね、うん、間違いねえ」
僕には返す言葉がなかった。と同時に人間は悲惨な過去を背負っていても平然と生きていけるものなのか、と信じること自体が難しかった。僕にとって木村くんの 話も関口さんの話も映画やドラマの中での話でしかなく、自分の生きているこの空間とは縁遠いものとしか捉えていなかった。
それなのに彼らはそれを平然と受け止めて生きている。いや、決して平然なんかではないとは思うが少なくとも僕の目にはそう映った。心にぽっかりと空いた大きな穴をどうやって埋めて生きているのだろうか。彼らの生きる原動力とは一体何なんだろうか。そんな苦労を知らずに生きてきた僕には想像すらつかない。
つづく

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人生劇場を思い出しましたw
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