宴会が始まり、最初のドリンクを注文する場面で、思わぬ空気が流れる。多くの参加者がビールやハイボールを頼む中、Aさんは静かに「水」を注文した。Aさんは酒を一切飲めない体質だった。
Aさんの対面に座っていた社長が怪訝な表情を浮かべた。酒が飲めない人でも、ウーロン茶やコーラを頼むのが“普通”だという感覚があったからだ。
社長はその場で、「一杯目はドリンクメニューにあるものを注文するのが、店に対するマナーであり常識だろう」と注意した。
するとAさんは、落ち着いた口調でこう返した。
「ベジタリアンがいるのと同じで、マナー以前に私は水しか飲みません。水を頼んで怒られたことは、これまで一度もありませんでした」
この一言で、場の空気は一変する。
社長は「メニューにあるものを頼むのがマナーだと言っている」と声を荒らげ、Aさんも「その考えを押し付けられる筋合いはない」と譲らない。口論は激しさを増し、ついに社長は「お前なんか辞めてしまえ!」と怒声を上げた。
売り言葉に買い言葉。Aさんはその言葉を額面通りに受け取り、何も言わずに席を立ち、宴会場を後にした。
怒りが収まらない社長も宴会場から立ち去り、残された社員だけでお通夜のような宴会がつづいた。
数日後、会社に届いたのはAさんの代理人弁護士からの通知だった。
「公衆の面前での叱責による精神的苦痛」と「不当解雇」を理由に、慰謝料として550万円を請求する内容だった。その金額は、皮肉にも社長が決めたAさんの年俸と同額だった。
社長は争う構えを見せているが、社内では別の見方もある。社長には以前から感情的に叱責する、いわゆるパワハラ気質があった。一方、Aさんには自閉症スペクトラム(ASD)の特性があり、場の空気を読むことや、暗黙の慣習への対応が苦手だった。
「飲み会の常識」を、多様性の時代に生きる若者に、それもASD特性を持つ者に力ずくで押し付けた結果、会社は期待の若手と多額の金、そして社会的信用を失うリスクに晒されている。
一杯の「水」を許容できなかった代償として、550万円はあまりに高い授業料となるのか。争う構えを見せる社長だが、その背中はどこか孤独に見えた。
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