パチンコ日報

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幻の「韓国パチンコ市場」。在日産業の夢と挫折

パチンコの国内市場が年々縮小する中、メーカーが海外市場へと目を向けるのは自然な流れだった。そのなかで最も親和性が高いとされたのが、地理的にも文化的にも近い韓国市場だ。

「在日産業」と呼ばれたパチンコ業界にとって、同胞の地・韓国はまさに第二のフロンティアだった。メーカーは歴代の親日派大統領へ水面下でアプローチし、市場開放を探っていたという。だが、その夢は現実の壁に阻まれ、幻に終わった。

実は1990年代半ば、韓国・プサンやソウルにはすでに“日本式パチンコ店”が存在していた。日本の業者が設備から補給まで一式を請け負い、そっくりそのまま日本型ホールを作っていた。

営業許可上は「成人娯楽室」、つまりゲームセンター扱いだった。ソウルの店では上皿にカバーを付け、直接玉を触れない工夫をしていた(日本でもゲームセンターのパチンコ機は玉を触れない理屈)。

プサンではカバーを外し、堂々と出玉を店内換金していた。もちろん違法だが、それでも人気を博した。

当時は韓国パチンコの黎明期だった。韓国では、“地下スロット”が庶民のギャンブルとして定着していた。そこに表の世界でパチンコを普及させようとしたものの、裏社会との縄張り争いに敗れ、パチンコは姿を消すことになった。

その後、2005年になると“第2次パチンコブーム”が韓国に訪れる。きっかけは「メダルチギ」と呼ばれる改造パチンコ機だった。釘をすべて抜き、玉ではなくメダルを使用。メダルを投入すればほぼ確実にスタートチャッカーに入るという、スロットマシンに近い仕様だった。

そして2006年、社会問題となったのが「パダ・イヤギ」──法定上限の200倍を超える2万5000倍の高配当を誇る超射幸機である。

国の許可を受けていたにもかかわらず、事実上の賭博機であった。調査の結果、映像物等級審査委員会の認可過程に賄賂が絡んでいたことが発覚し、政府機関の汚職問題にまで発展。韓明淑首相が国民に謝罪する異例の事態となった。翌年には法改正で商品券交換が禁止され、「メダルチギ」も完全排除された。韓国のパチンコブームは、わずか2年で幕を閉じた。

その一方で、2008年に就任した李明博大統領に対し、民団関係者が同胞の基幹産業であるパチンコの規制緩和を大統領を通じて、日本政府に陳情する動きがあった。

しかし、政府関係者の反応は冷ややかだった。

「李明博は大阪生まれだったかも知れないが、韓国の国益を考えるのが大統領の仕事。在日産業が発展してその税金が韓国に落ちるわけでもないのに、協力するわけがない。韓国籍でも日本に住んでいると徴兵に取られることもないので、平和ボケしている」

韓国に住まない在日同胞への皮肉を込めたこの発言に、日韓の温度差がにじむ。メーカーも同時期、韓国での市場開放を求めて働きかけていたと思われる。その後親日派の大統領も誕生したのだが…。

国内の生産体制の落ち込みを、輸出で補う狙いだった。

ホール運営も日本からの参入を目論んだ。「100店舗は行ける」という強気の見通しも立てていたが、政治の不安定さとギャンブル嫌悪が根強い韓国では、パチンコの再上陸は果たせなかった。

パチンコという文化が一度でも国境を越え、熱狂と混乱をもたらした事実は重い。国内市場が先細る今、業界は改めて“外へ出る”ことの意味を問われている。



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