今まで男性との恋愛経験が豊富であったならば、すぐにでも『これが恋なのだ』と気付くことができたのかもしれない。恋愛とはおよそ縁の遠い環境を余儀なくされた玲子がすぐにそれだと判断することは難しかった。しかし頭では理解できなくとも心は確かに動いている。これまでにないほど玲子の心は一気に躍動を始めた。男は頭で愛を考え、女は子宮で愛を感じるもの。戸惑いを見せている秀樹に対し、玲子の行動は思いのほか大胆でしかも唐突であった。
「ひでくん、表に出て少し歩かない?」
泣きはらした瞼の奥に鈍い光をたずさえた瞳は怪しい憂いを湛えていた。
「え、はい、あのう、はい」と秀樹は返事をしたもののおおいにたじろいだ。
確かに一時的であるにせよ玲子に対して好意以上の感情を抱いた。だからと言ってそれが男女の関係を直接指すものではない。これは一種のあこがれに近いものであると秀樹は思いこむように自分を差し向けた。
しかし彼はその思いを簡単に閉じることができなかった。こんな夜中に二人きりで夜道を歩くなんてことは想像しただけでも恥ずかしい。彼女は僕をどうしたいのだろうか。まさか近くにあるホテルローマに誘っているのか。僕が店長の奥さんと、あこがれの玲子さんと・・・。
いやいやそんなことはあるはずもない。玲子の突然の誘いに秀樹の心は大いに揺さぶられ、妄想は自分勝手に暴走していく。でも相手は紛れもない店長の奥さんだからこの誘いに乗れば後々面倒なことにもなりかねない。やっぱりこれはいけないと断るべきだと思ったのだが結局促されるままに店を後にした秀樹であった。
ただ一緒に歩くだけだから、何か特別なことをするわけではないのだから、と手前勝手な理屈を自分の中で確立させた。そうでもしなければこの行為そのものが人の道として成り立たないのである。しかし男の理性とは全く弱くできていて、頭の中をぐるぐる回るへんてこりんな理屈とは裏腹に秀樹の心はすでに躍っていた。
「玲子さん、こんな夜更けに僕たち二人で歩いていてもいいんでしょうか」
良いも悪いも現実に二人はこうして歩き始めている。
「大丈夫よ。あの人は今頃常連客と麻雀しているから朝まで帰ってこないよ」
玲子は秀樹の心配を見透かしてそういった。しかし秀樹の心はかなり穏やかでない。
『朝まで・・・。ということは・・・』またもや彼は卑猥なことを考え始めた。
暗い夜の道すがら。一匹の野良犬だけが徘徊し、人気は全くなかった。二人はしばらく無言のままひたすら歩き続けた。途中、ホテルローマのネオンが見えたが玲子はそちらのほうへ行く気配は全くない。当然だよな、と思い苦笑した瞬間の出来事だった。
「あぁぁぁぁ!」と声を張り上げ秀樹は小石につまずき、前のめりになった。
転びそうになると人間は本能的にそばにある何かにしがみつく習性をもっている。そばには玲子のふくよかなお尻が見えた。いけない! これには手を触れてはいけない! 秀樹の咄嗟の願いとは裏腹に本能は理性を上回る。
「きゃっ!」
玲子は自分の身に起こった不幸を瞬間的に察知した。が、時すでに遅し。彼女の腰あたりに捕まった秀樹の手は、ゴムだけでウエストを止めている玲子のマキシスカートをつかんだまま地面につんのめってしまったのだからたまらない。無残にも玲子の薄手のスカートはくるぶしまで完全にずり落ち真っ白な太ももがあらわになった。
「あわわわ。すいません、すいません」と何度も詫びを入れる秀樹。
玲子は秀樹が必死に謝る姿があまりにも滑稽だったので、恥ずかしさも忘れ声をあげて笑った。
「まったく、ひでくんたら。本当はわざとでしょ」
スカートをたくしあげながら玲子はおどけて見せた。
「違います、本当に違いますから」と秀樹はかぶりを振るが転んだ拍子に地面にぶつけた膝の痛みと、偶然とはいえ自分がしでかした暴挙による申し訳なさがないまぜになり、何をどうしたらよいのか全く冷静な判断を失っていた。
そんな秀樹を玲子は聖母マリア様のような慈悲深く広い心で抱き起した。そして秀樹の手の平についた砂を自分の手で払い、しばらくその手をじっと見つめる。
「ねえ。ひでくん。二人で逃げちゃおうか」
次から次へと矢継ぎ早に展開するその状況についていけない秀樹ははるか彼方を見つめた。
玲子の目は決して冗談をいうそれには見えなかった。
まさに青天の霹靂、驚天動地とはこんなことを言うのであろう。そして玲子の口からまさかこんな状況の下で昼のドラマにありがちな、ドロドロしたセリフがいとも簡単に出てくるとはいったい誰が想像したであろうか。
玲子から告白を受けた気分の秀樹はロマンとはほど遠い不細工な顔ただひきつらせるだけであった。
「やだよね、こんなおばさんと駆け落ちなんてさ」
玲子は自嘲気味の笑いを含み断わりの返事が秀樹の口から出てくるのを恐れてか、彼の答えを一方的に遮った。
つづく

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往々にしてあるものです。
カミュの異邦人の後半みたいな展開にドキドキしました。
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