静寂は世話役の咳払いで突然破られた。更に品の無いズズズーというコーヒーを飲む音。
「あれほどに強く当時国民的なヒーローであった力道山は、な。飲み屋で酒を飲んだ後で立ち小便をしているときに後ろからチンピラに刺されたんじゃ。いかに強くても所詮は生身の人間。しかも後ろから不意を突かれて刃物で襲われたんじゃあ世界最強のプロレスラーでも勝ち目はないわのう」
僕はこの爺さんが一体何を伝えたいのか全く分からない。しかし刺されたとか死んだとかの言葉で緊張は増すばかりである。
「時に刺された理由じゃ。チンピラだとなめとったんじゃろう、酔っぱらった力道山はそいつを口汚く罵ったらしい。しかも堅気の衆の面前での。それでのその若いチンピラは力道山が表に出て小便するのを見計らってブスリ、というわけらしい。若いの、いいか。いくら筋の通った話でもの、その伝え方一つ間違えただけで結果的に自分に被害が及ぶ時がある。世の中には正義を貫き通したために死んだ人間は沢山おるのよ。わしから言わせればつまらん正義じゃ。大切なのは物事の程度じゃよ。そこそこがいいっちゅうことじゃ。それから今日のことじゃがの、もし玉のやり取りをやっておったのがわしのような老いぼれじゃなくて、強面の輩でも同じような口調で正義をうたったかの?」
僕はその問いに答えることが出来なかった。
「まあ、言えんわの。わしはそこが気に入らんかった。だから今日はうちのと言ってもわしはもう引退したから、昔の事務所に来ておまえさんに説教をしてやろうと思ったわけじゃよ。別に煮たり焼いたりするわけじゃあねえから安心しないね。いいかね、これからは自分の意見を通す時はたとえどんな相手であっても、 誰に対してでも理解してもらえるような話し方を身につけることが大切じゃよ。今日は年寄りの時間つぶしにつきあわさせて悪かったのう」
八幡組の世話役は良い人だった。怖い思いはしたけれどかえってよかったと思う。社会人とはいえぱちんこ屋さん一件分の世界しか知らない僕にとって、今回の事件はまさに生きた教科書だった。恐怖から始まった僕の心は大きな様変わりを経て、今や感動のるつぼと化した。
「ありがとうございます。そして本当にすみませんでした。これからは気をつけますので、はい。今回は大目に見てくださってありがとうございます」
何度も何度も頭を下げ、心から謝した。世話役の懐の深さを知り、人としての偉大さに気付いた僕は今涙している。涙があとからあとからこぼれて止まらなかった。そんなときである。
「おじさんいるん?」
と言ってずかずかとは言ってきたのは誰であろうか、うどん屋のサムちゃんであった。
驚いた。何故に彼がここに来たのか僕には見当もつかない。ただおじさんと呼ぶ以上は相当に近しい間柄であることは容易に想像できるのだが。
「やっぱりな。おじさん、また暇つぶしに若いもんいじめてたんだろう?」
「いやいや、そうでもないぞ。今日はいい奴と知り合いになれた」
「まったくもう、どうしようもねえじゃねぇん。坂井主任、大丈夫なあん?」
僕はおどおどするばかりで強張った愛想笑いをするだけだった。
「おじさんは俺の親父の一番上の兄貴でさ、決して悪い人じゃないから安心しなよ。ときどき若いもん見つけちゃ説教するのが趣味でさ、あんまり気にしないほうがいいよ。どうせ力道山の話でもしてたんだろ?」
僕がきょとんとしていると世話役は知らんふりを決め込んであさっての方角を向いていた。
帰りの道すがらサムちゃんは僕の緊張をほぐしてくれるかのように優しく語りかけてくれた。安心したせいか僕の心は急速に軽くなり、普段のお調子者が顔を出し始める。
「ていうことはサムちゃんもやくざ?」
一瞬沈黙はあったものの彼はそれをあっさり否定した。
「ごめん、変なこと言って」
「別にいいよ。慣れてるから。俺小さいころから体が弱くて結構いじめられてたんだ。しかも親戚にやくざがいるっていう事でみんなから変な目でみられて仲間外れにされることも多かった。暗い幼少期っていう奴? だからガキの頃はずっとふさぎ込んでた。そんな俺を見てたおじさんがそれじゃ不憫だっていうんでおじさんとこの若い衆から空手を習えって無理やり連れて行かれたんよ。空手も空手だけれど毎日の練習が終わった後のおじさんの説教が俺にとっては楽しみでもあったんだ。ああ見えて結構の心配性でさ。俺のこといちいち気にかけてくれて人生っていうのはな、とか男っていうのはな、なんて話を必ずしてくれたんだ。それらの話が俺にとって結構ためになったんだよ。だから俺、おじさんには感謝してるんだ」
僕はそんなサムちゃんの気持ちが良くわかるような気がした。
「そうなんだ。なんか俺びっくりの連続でさ、何が何だかわからないけれど今日はかえっていい日だったなって思えるな」
「そう、じゃあよかった。仕事に入る前にうどんでも食っていく?」
言われて現実に引き戻された。僕は挨拶もそこそこにホールへと駆け込む。
そこにはやくざよりも怖い金縁の眼鏡をかけた、鬼の形相よろしく仁王立ちのカルティエが僕の帰りを今か今かと手ぐすね引いて待っていた。
「こるああああああ~坂井ぃ~! おまえいい根性してるなあ。俺がいないと思ってもうさぼりか? ああん? このくそガキがああああ!」
やっぱり僕にとって最強にして最悪の天敵はこいつをおいてほかにない。やくざよりよっぽど始末が悪いのである。
つづく

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