パチンコ日報

ニュースにならないニュースの宝庫 

第4話 爪痕 ⑨

矛盾

ほとんど寝付けなかった僕は今日が遅番出勤であることを思い出し、昼を過ぎても床から離れなかった。階下では軍艦マーチと木村くんの呼び込みマイクが聞こえてくる。毎日は必ず毎日同じようにしてやってくる。しかし僕の今日という日はいつもとは違う。

昨日の事件と木村くんと関口さんの話が脳裏に焼きついていて、新しい今日という日を迎える準備がまだできないでいる。僕はこの店に勤めて徐々にではあるが、彼らとの距離を縮め日々の暮らしを共にすることによって情も湧いてきた。

しかし店長をはじめとするこの店のスタッフは僕だけが持っている常識や良識の範疇をことごとく打ち破ってきた。さらに言えば決してこの人たちは『良い人たち』ではないのだ。そしてこの様を僕の両親が見ていたら間違いなく『そういう人たちとお付き合いするのはやめなさい』と言うであろう。

ところが僕は何故か彼らの建前ではない本音を通す生き様を見ていると自分が恥ずかしくなるのである。人としての行いの良し悪しは別にして彼らは自分の心に素直に生きているのだと思う。人生の何たるかを知りもしない僕は、言いようのない自己嫌悪感に犯されていて自分が押しつぶされそうになってくる。

完璧なことなどできるはずもないのに、完璧を求める自分がひどく小さな存在に思えてくるのは何故だろうか。本音で生きていく彼らは僕の心の状態を知ってか知らずか、いつでも優しく接してくれる。そしてその温かみは僕がいた家庭では味わったことのないものだった。だからこそ彼らを大切に思いたい。
 
恐らく逃げていった西田にしてもそれなりの過去があって、それなりの事情があるのかもしれない。そ してそれは彼が『今』というこの瞬間を生きていく上での最上の方法だったのだろう。

そこで僕は思う。どうしてみんな過去に辛い経験や悩みを持っているのに人を騙し、裏切り、迷惑を顧みず、自分本位で生きていくのだろうか。辛さや痛みを知っているからこそ他人様に対してなおのこと正直に生きていかなければいけないという理論には無理があるのだろうか。

このぱちんこ屋という小さな箱の中でみんな寂しくて、寂しくてどうしようもないのに、どうして心を一つにして集まることができないのだろうか。何でもっと心を寄せ合い、互を信じ合い生きていけないのだろう。それは僕だけが考える理想の世界であって、世の中なんか、現実なんかこれが普通なのだろうか。僕は一体どこから来てこれからどこへ行こうとしているのだろう。何度問いかけてみても答えは見つからない。
 
林夫婦の事件から始まり西田の事件、そしてみんなの苦しげな心情を目の当たりにして、僕は心身ともに疲労困憊の状態にある。たった三ヶ月のあいだにいろいろなことがありすぎた。だから心が折れて体が思うように動かない。

西日が部屋に差し込む頃、ようやく僕は腰を上げる。これ以上考えても頭がおかしくなるだけだ、と吸っていた煙草を乱暴に消し、顔を洗い、身支度を整えてから身の回りの整理にとりかかった。散らかっていた部屋を一人掃除していると三ヶ月分の垢が此処彼処に溜まってい る。緑色のカラーボックスの奥にはとうに忘れていた友達と撮った古い写真が一枚。この部屋にそぐわない様子で貼られていた。大学に通っていた頃の写真だった。

写真の中の僕は屈託のない笑顔で友達と肩を組んでいる。不意に淡く懐かしい匂いがぷうんとした。わけもなく涙が出てきた。近くにある鏡で今の自分の顔を覗くとパンチパーマをかけ、顔はくすみ、目は落ち込んでいた。

考えてみれば毎日が忙しすぎて過去を振り返る時間もなかった。実家にも帰っていない。ぱちんこの喧騒の中で慌ただしく一日が過ぎていく。そしてそれをただ黙ってやり過ごす。いつの間にか変わってしまった自分は、姿かたちこそ大人のふりをしているが心はその大人になりきれず、人間の奥底にあるおどろおどろしい得体の知れないものに触れるたびに人間不信に陥る。

部屋の中は孤独感でいっぱいだった。家に帰りたい。昔の楽しかった頃に戻りたい。そう思ったらいてもたってもいられなくなった。もうこの店をやめることに迷いはなかった。僕はここを出て全然違う仕事を探して、本来の自分を取り戻そうと心に決めた。

つづく


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第4話 爪痕 ⑧

凄絶なる理性

「なんか湿っぽい話になっちまいましたねえ」

木村くんが人差し指でこぼれそうになった涙をそっとはじいてみせる。

「お前はまだいいよな。実の親がそばにいてよ。俺の親はいま刑務所にいるんだぜ」

そういった関口さんが缶ビールの残りをぐいっと煽りポツポツと語り始めた。
 
彼の家は生まれつきの貧乏であったという。物心ついて時から彼には父親の記憶はなく、むしろ母親と二人で暮らすことに何の違和感もなかったらしい。貧しいながらも母親と幸せな幼少期を過ごせたことが唯一の財産ではなかったかと彼の話をすべて聞き終えたあとで思った。

国から生活保護を受け貧しい生活を続ける中、その生活の破綻の始まりは彼が中学校を卒業する間際に起こった。今まで酒など飲んだことのない母親が、夜遅く酩酊の姿で帰宅したのを今でもはっきりと思えているという。普段の母親からは想像もつかないほどの醜態で、泣きわめき自分の不幸を罵り、気分が悪いと言って嘔吐を続ける母親を見て、関口さんはただその場に立ちすくみ何故かそんな母親に嫌悪感を抱いたと言う。
 
その日以降酒を飲んで帰ってくる日が続き、時には男を家の前まで連れてくることもあった。やがてその男は家に上がり込むようになり、当たり前の顔をして彼の家に泊まり込み挙句の果てにその家に住み着いた。もともと無口で内向的な性格の関口さんは、文句の一つも言えずただ耐えるしかなかった。  

ただいるだけなら良かったのだろうが、その男はやがて関口親子に暴力を振るうようになる。それでも耐えるしかなかったのだ、と関口さんは付け加えた。彼は自分の家の状況を考え高校進学ははなから考えていなかった。特にその男が家にいつくようになってからは、卒業式が来る日だけを心待ちにしていた。

埼玉の工場に就職が決まっていたため、卒業したらその日に家を出る決心をしていたのだと言う。しかしその目論見は意外な結末によって反故にされる。卒業式が終わり、式に来てくれない母親を恨めしく思いつつも卒業の証を一刻も早く母に見せたくて、彼は家路を急いだ。

家の近くまで走っていくといつもと違う、何か怪しい胸騒ぎが彼をせっつく。家の前は人だかりで騒然としていた。ただならぬ雰囲気が彼を圧倒する。と、自分の家の中から救急隊員が大声を張り上げ 「どいてください!道を開けてください!」と緊張の面持ちで走り抜けた。

彼は恐る恐る家の敷居を跨いだ。部屋には力なくへたりこんでいる母親がいた。母の顔や体全身にはおびただしい量の血がベッタリと付着しており、膝下には包丁が無造作に転がっていた。返り値を浴びて真っ赤になっていた母親の顔だけが不思議なくらい真っ白い色をしていたと関口さんは努めて冷静に語った。

「結局貧乏暮らしの母親が金欲しさに飲み屋で仕事を始めて、タチの悪い男にひっかかり、とどのつまりが刃傷沙汰におよんだ。よくある話さ」

最後に苦しそうなうすら笑いを浮かべてそう言い切ると、関口さんは無言で部屋から出ていった。

「坂井さん、関口さんかわいそうでげすね。あの人の話、あっしは初めて聞いたでげすよ。でも貧乏って人を狂わせるって知ってましたか。もしあっしが坂井さん家みたく金持ちだったら暴走族には入ってなかったでげすね、うん、間違いねえ」
 
僕には返す言葉がなかった。と同時に人間は悲惨な過去を背負っていても平然と生きていけるものなのか、と信じること自体が難しかった。僕にとって木村くんの 話も関口さんの話も映画やドラマの中での話でしかなく、自分の生きているこの空間とは縁遠いものとしか捉えていなかった。

それなのに彼らはそれを平然と受け止めて生きている。いや、決して平然なんかではないとは思うが少なくとも僕の目にはそう映った。心にぽっかりと空いた大きな穴をどうやって埋めて生きているのだろうか。彼らの生きる原動力とは一体何なんだろうか。そんな苦労を知らずに生きてきた僕には想像すらつかない。

つづく


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第4話 爪痕 ⑦

父親の涙

木村くんは暴走族にちょうど一年いた。彼は1年間使いっ走りを強いられ、いじめにあっていたわけだ。もっとも本人はそれでもよかったと今も言っているのではあるが。

彼が暴走族を辞めた理由は意外なものだった。ある日父親と何年かぶりで風呂に入ったときのことである。腕に無数の根性焼きを見るやいなや、父親は彼を叩いた。父は息子をこれでもかというほど打ち据えながら慟哭したという。父親の涙はとどまるところを知らず今まで言えなかった思いを、父親としての本心を彼に伝えたのだった。

「いくらだらしない親でも俺はお前の親だ。俺の分身であるお前の体が他人から傷つけられて俺は黙っているわけには行かねえ。しかもお前はそれをあたかも勲章をもらったかのように俺の前で自慢しやがる。ああ、お前はどうしようもない奴だ。早く仏壇の前に座って死んだ母 ちゃんに心から詫びを入れやがれ。そして二度とその集会なんかに行くんじゃねえ。暴走族なんぞやめちまえ」
 
父親はそれからしばらく口をきかなくなったという。木村くんは実の父親にここまで言われるとは思ってもみなかったらしい。やめたくはないがやめなくてはいけないと父親の涙を見てそう思ったところは彼の素直さではなかろうか。

しかしチームはそう簡単に足抜けを許さない。数日間彼は家でまんじりともせず過ごした。そして幾日かしたある日。父親が右目を腫らし、口元から血を流しながら帰ってきた。

「チームのリーダーっていう奴の家まで行って直談判してきたぞ。お前は気が小さいから『やめる』って言えねえだろうからな。そしたらそいつがただでやめさせるわけにはいかねえってほざきやがった。それがチームの規則なんだよと。けっ、暴走族にも規則なんてもんがあるんかねえ。でもしょうねえから『じゃあ、俺を好きにしろ!』って言ったらこのザマよ。あいつら本当に好き放題しやがって。ムカついたけどこれでお前が足洗えるなら安いもんだわな」

木村くんはそんな父親の話をしながら涙を目にいっぱい溜めていた。僕は黙ってその続きを聞いた。

「これでお前も普通の仕事について一生懸命に働くんだぞ。うちは貧乏なんだからいつまでも遊んでいてもらっちゃあ困るんだよ。わかっているな」
 
木村くんは泣いて親父に誤った。そして仕事を探してたどり着いたのがこのぱちんこローマだという。世間一般から見たぱちんこ屋は低俗な仕事なのかもしれない。事実、ぱちんこ屋で働く社員が何らかの犯罪に巻き込まれ、被害に遭いそれが新聞やニュース報道に載っても、会社員の誰それさん、とは出ない。ぱちんこ店店員とだけ報道される。 

しかし木村くんの父親にとってはそんなことは関係ないのだろう。職業に貴賎はないと言うが、まったくそのとおりだと、木村くんの就職を膝をたたいて喜んでくれたらしい。僕は体を壊してろくに仕事もできない父親の生活を木村君の給料で賄っているということを今日初めて知った。
 
木村くんの生き方がいいか悪いかはわからない。もともと群れて行動をするのが嫌いな僕にとって暴走族なんていう選択肢はない。でもそれも人生なのかもしれない。

木村くんの父親が息子を思う気持ちに嘘偽りはないのであろう。羨ましいと思った。僕は厳しい表情をした冷徹な自分の父親の顔を思い出してみる。もし僕が木村くんみたいに道を誤ったらお父さんも体を張って僕を正しい道へと戻してくれるのだろうか。多分そこまではしないだろう、と思ったら急に心が冷えてきた。

つづく


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第4話 爪痕 ⑥

屈折した過去

ドタバタ劇のあとから寝床に着くまで何をしていたのかあまり覚えていない。そして今日起きた様々な出来事が生々しい。未だに信じられないカルティエと関口さんの公金横領。木村くんがしたことだって金額が小さいっていうだけで立派な横領である。どうでもいいことだが連獅子が西田と連れ込みホテルに行ったということもショックといえばショックであった。

どうしてみんな嘘をつくのだろう。嘘をついて人の目をごまかして表向きでは格好つけて生きていく。そんな人生を生きていて何が面白いのだろうか。彼らをなじってみる。なじった後で僕は矛盾を感じる。それは自分自身も機械に細工をする共犯者として横領に加担しているからだ。僕が人を責めることの権利なんてあるはずがない。だいたい自分が満足な人生を送れていないのに、他人様に対してバツ印をつけること自体がナンセンスである。
 
考えてみれば好き好んでこの業界に入ったわけじゃない。たまたまの巡り合わせでこの店の門を叩くことになっただけだ。特別な技術や能力があるわけでもないし、この仕事に対する思い入れや執着なんかさらさらない。でも何かのめぐり合わせによってこの店に入った僕は『出会いは必然だ』なんて格好のいい言葉の響きに半ば共感しながら、それがいいんだ、正しい道なんだと自分の感情をごまかしながらなんとか今まで働いてきた。

最初は夢もあったし、希望もあった。初めて社会に出て一端の社会人として、一人の確立された大人としてどう生きていくべきか真剣に考えてもみた。しかし今はそんな思いなんて欠片ほどもない。やめるべきかな、と真剣に考えた。
 
眠れない夜と煙草はつきもので僕は相も変わらず万年床の上にあぐらをかいて、煙を吐く。ドアの向こうから足音が聞こえてくる。仕事が終わってみんな戻ってきたのだろう。いつもなら食堂の前あたりでその足音は止まるのだが二つの足音が僕の部屋の前まで来て止まった。

「坂井さん、起きてるでげすか」

木村くんの声はいつもよりトーンが低い。黙ってドアを開けると関口さんもそこにいた。「よう」と言って当たり前のように部屋に入ってくる。

「酒飲みしょうよ。コンビーフと牛肉の大和煮とチーズ味のカール買ってきやしたぜ」

二人はコンビニの袋からビールとつまみをいそいそと取り出し勝手に飲み始めた。僕も無言のままそれにつきあう。 

最初は酒のつまみにという軽い気持ちで木村くんのこれまでの面白い話を聞くに過ぎなかった。今までだって彼の話はいつも陽気で笑える話ばかりだったから、今日もそんなノリで始まったくらいにしか思っていなかった。

暴走族上がりでいつもいきがっている木村くんの話は、幼少の頃どもりがひどくて近所の悪ガキたちからいじめられていたところから始まる。中学を卒業する間際にそいつらに報復をしてやりたいのだが自分ひとりの力ではどうにもならないことを知っていたから暴走族に入っ たのだという。屈折した考えではあるが僕にはそれを批判することはできない。なぜなら幼い頃に背負った傷は本人が克服しない限り癒えないことを知っていたからである。
 
彼の話は僕に少なからず悲しみと小さな感動を与えた。小さい頃からいじめられていた木村くんは、ここでもそのトラウマのせいで自分の意見を言うことができず、周囲に対して卑屈なまでに腰を低くし、先輩たちはおろか後輩たちにまで馬鹿にされ、通年使いっぱしりをさせられ ていた。

木村くんの二の腕には煙草の火で皮膚を焼くいわゆる根性焼きの跡が無数にある。一体何をしでかしたのかと聞いてみて呆れてしまった。

普通は自分に根性があるところを見せるために行うものらしいが、彼の場合は先輩たちからお仕置きをされて出来たものだ。本人は自分の失敗に落とし前をつけた証だというが、要するにそこでもいじめを受けていたわけである。

僕が到底理解できないのは、そんな仕打ちを受けながらも本人はそれでもチームから抜けようとは思わなかったということである。どうしてなのか、と問うと小学生の頃のいじめは全くの孤独を強いられたものであったが、ここに入っては同じいじめでもどこかに連帯感が有り、一人ではないという安らぎがあったと木村くんは言った。それが仲間というものだという彼の理論には正直かなりの無理を僕は感じた。 

つづく 


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第4話 爪痕 ⑤



「まあ、仕方がないか。西田もいなくなったことだしな。実はな、うちの店の金勘定っておかしいと思わないか。普通営業前に両替機に入れておくつり銭は金種別に何をいくら準備するかって決まってるだろ」

「え、そうだったんですか」

そこらへんの仕組みに全く疎い僕は思わず聞き返した。

「坂井さんはぱちんこのこと本当に何も知らねえですねえ。それは基本でげすよ」

「そうだな。いいか、坂井よく聞けよ。考えても見ろ。コンピューターではじかれた売上の数字と実際の現金の金額とが合わなかったらおかしいだろ。それを確かめるのには営業終了後に現金を全部数えてから朝用意していたつり銭を引き算すれば純粋な売上金額が出てくるよな。そしてその金額とコンピューターの数字がピタリと合えばその日はめでたしってことで事務処理は終わりよ」

言われてみればもっともな理屈である。

「ところが、だ。うちの崔社長は『ヒャクエンタマイレルノハ、タイタイデイイカラネエ。オカネイレルトコロニポクガマジックデカイタセンマデイレテネエ。タクサンイレルトオモイカラネエ。オチュリガナクナッタラトチュウデマタイレテネエ。ドーモー、ヨロシクネエ』って言いながら札束だけ自分で両替機から抜き取ると、その現金とコンピューターの数字を照らし合わせながら『タイタイコレクライタネエ。イイカンジ。ハイ、オスカレサマア、ドーモー』って帰るだろ。だから正確な今日の売上の金額って誰も知らないわけさ。おかしいと思わねえか」

関口さんの社長のモノマネがあまりにも似ていたのでさっきまで泣いていた木村くんと僕は大笑いしてしまった。今日の関口さんはいつになくよくしゃべる。何よりも滑舌がいい。と思っていたら

「関口さん、歯どうしたんでげすか」
と木村くんが関口さんの口元に向けて指を差す。

今の今まで気づかなかった。歯抜け状態で喋るとヒューヒューと音を立てながら喋っていた関口さんの今日は歯はひとつして欠けている部分がなく、綺麗な歯並びをしていた。

「まぁな、結構これだけするのにお金がいるってわけでさ」

「え?それと今の社長の話と何の関係があるんですか」

「坂井、全部言わせるなよ。だからあ、その現金回収の甘さに目をつけてちょっと借りたわけよ。勿論すぐに返すつもりでいたんだけどな。ほら、社長がいない時は店長が釘打つし、両替機の金は俺が回収してただろ。そんときにちょっとさ。いや、なんか最初は一万、二万くらいだったんだけどそのうち金額も大きくなってさ、それに毎日馬車馬みたいにこき使われてこんな安月給で働くのもバカみたいじゃん」

「それでお店のお金に手をつけたってわけですかい」
木村くんは自分のことを棚に上げて関口さんを責めた。

「まあそう言うなよ木村。でも俺なんかまだいいほうだぜ。ある日いつもするように両替機の金をくすねていたところを西田の奴にめっかっちゃってな、半分よこせときたもんだ。あいつは本当にワルだぜ」

僕は気分が悪くなってきた。どんな理由があれ店の金に手を付けるなんてありえない、と憤りを感じるのである。

「で結局今までいくらやってんでげすか」

「半年で二百万、くらいかな」
「えーーーー!」

驚いた。驚いて僕は再び椅子から転げ落ち、木村くんは自分の七千円と二百万という金額の違いにショックを受けて悔しさのあまり自分の頭を食卓にゴンゴンぶつけていた。

結局みんなが何らかの形で西田に弱みを握られていた、という事実が白日の下にさらされた。僕も決してその例外ではなかったが、今この場で二人に打ち明ける気にはなれなかった。僕はずるい人間だ。それより店長のことが気になる。カルティエが本当に今回の事件に関わっていたかどうかはまだ解明されていない。

奥さんの件で西田に脅迫されていたのは事実であろうが、本当に金庫からお金を盗んだのだろうか。僕には到底信じられない。しかし今の段階ではそれを知るすべもなく、僕自身もうどうでもいいと思い始めていた。
 
一ヶ月に一度あるかないかの個人公休日が瞬く間に終わろうとしてい る。みんな一癖も二癖もある人たちだけど決して嫌いではない。でも今日の出来事は僕にとってまさに驚天動地、青天の霹靂だった。正常な思考はなりを潜め、心は黒くその色を変え、ざわめきだけがまるで生き物のように動き出す。

無味乾燥な国道の風景にオレンジの夕日が色をなす。真っ黒いディーゼルエンジンの煙を無遠慮に吐き出しながらものすごい勢いで駆け抜けていくトラックたち。「不毛だ」と独りごちた。いったい誰を信じて何を信じればいいのか。世の中ってこんなものなのか。僕は黒く深い沼に落ちていった。

つづく