パチンコ日報

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寝ることは罪をスローガンに地域一番店づくり

ホール経営に着手したのは昭和が終わろうとしている頃だった。1号店は300台未満の小型店舗だったが、4億7000万円かかった。融資したのは朝銀が行った。

2号店は350台クラスの店舗だったが、コストは1号店に比べ3倍かけて立派なものにした。

時代は平成に入り、この2店舗で1日5000万円を売り上げた。今では信じられないような数字だが、当時1パチなど存在もしない。台売り10万円時代である。

当時のスローガンは「寝ることは罪」。成績を上げ、目的を達成するために寝る間も惜しんで徹底的にパチンコを研究した。

他店が粗利を30%も40%も取っていた時代に粗利10%を押し通した。出玉だけはどこにも負けないためである。

しかし、取るときは徹底した。客の動向を観察して、負けた反動で突っ込む「賭博心理」の中から「快感」を研究した。釘も講師を務めるほどまでに理論と技術を磨いた。

ある時客からこんな苦情を言われたことがある。

「頼むからこれ以上出さないでくれ。この店で長く打ちたいから。こんなに出したら店が潰れる」

確かに出玉では他店に負けないことを自負していたが、前述したように取る時には徹底して取っている。メリハリのある営業をやっていたが、いつも出しているように錯覚しているのかも知れない。

出玉の次は他店に真似できない心に沁みる接客を徹底した。遊びに来てもらいたいという気持ちを伝えるために出した手書きはがきは一定の効果があった。回収率を高めるために、はがきを持参するとピコピコハンマーで店長を殴る特典を付けた。

ホールとお客が友達を超えたホモ達関係を2~3年かけて構築した。ちなみにホモとはホモサピエンスことで、あのホモではない。あなたからなら「高くても買いたい」という金銭面を超えた人類愛のような関係だ。

ホールのそうじのおばちゃんは待遇面でも大事にした。おばちゃんの口コミ力はすさまじいものがあるからだ。そうじのおばちゃんの扱いが酷ければ「ウチの店では打たない方がいいよ」とマイナスの風評は瞬く間に広がる。大事にしていたらプラスの情報しか流さないので、おばちゃんの口コミが集客にもなった。

365日会議。努力に努力を積み重ねた結果、成績はガンガン上がった。その分、学校建設や日本の社会福祉団体へ還元した。

「朝鮮人部落で生まれ育ち、貧困から抜け出したかった。共産主義でガチガチになっていた。赤い旗を降ろした時からパチンコ業界へ一従業員で入った。やってきたことは自己満足。見返りはいらないと自分を理解させた。日本人が好きだから日本人を大事にした」

今は業界から完全に離れたところでひっそりと生活している。




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ダイエーが経営していたパンドラへ出向した人の回想録

総合スーパーのダイエーがパチンコホール「パンドラ」を経営していた時代に話は遡る。ダイエーがパチンコ業界に進出するきっかけは、94年に合併した忠実屋がホールを1店舗経営していたことによるもの。

ホール経営の中身を調べてみるとかなり優良なことから、95年からダイエー自身が既存ホールを買収したり、不採算店舗をホールに改築して出店攻勢をかける。

96年、大阪・難波にオープンしたダイエーグループのオリエンタルホテルの地下は、1000台規模の大型ホールになる。これだけの広い地下フロアで採算の合う商売と言えばパチンコ以外に考えられなかった。

しかし、中内功会長は「われわれがやるには遅すぎる」とホール経営には消極的だったが、パンドラは「100店舗構想」を掲げるほど鼻息は荒かった。

ダイエー本社からパンドラへ転籍したAさんは、パチンコ好きだったので自らが希望してパチンコ部門への配属となった。

それまでスーパー部門で1円単位の商売をしていたAさんは、改めてホールの売り上げ、粗利額の大きさに驚きを隠しきれなかった。当時は300台クラスのホールでも日売りが1000万円~1500万円。売り上げだけでなく粗利が1日に300~400万円もあることに腰を抜かした。

Aさん同様スーパーから出向してきた店長たちも、ホール経営のダイナミックさに魅了されていった。だからすぐに100店舗構想が発表されたわけだ。Aさんも100人の店長の一人になることを夢見て働いた。

実際、ダイエーの経営がおかしくなって、2006年、パンドラを長野のアメニティーズに売却するまでは、5年間で16店舗余りを出店している。

パンドラを売却後は、出向していた社員はダイエー本体に戻ったが、ほぼ全員が残っていない、という。

「パチンコを経験すると金額の小さい地道な商売ができなくなりました。金銭感覚が狂うというかどうしても単価の高い商売をやりたくなります。だから不動産業界へ転職した人も多い。マンションを一棟売れば何百万円も歩合が付く。だからパンドラへ出向した人は人生が変わりました」

そういうAさんは、ダイエーがイオングループになる前にセブンアンドアイホールディングスへ転職。スーパー部門で契約社員として働いている。

「日本一の小売業でプロ野球球団も持っていたダイエーが潰れるなんて誰も思っていませんでした。倒産を直に見てきましたが、大きいところにいれば、安心できる時代でもない。安心な会社なんてないということです」

会社の規模よりも中身が大事。パンドラへ出向した人たちは金銭感覚が麻痺したというが、パチンコ業界しか経験していないと、やはり小さなコツコツとした商売はできない?



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清泉寮ソフトクリームとホールオーナーの情熱

清泉寮ソフトクリームが大好きなホールオーナーがいる。若い頃、奥さんと一緒に食べた思い出の味でもあり、彼にとって特別な存在だ。

清泉寮ソフトクリームと聞いても、何それ?という人も少なくないだろう。そこで、少しその背景を紹介しよう。

1970年代半ばから90年代初頭にかけて、山梨県の清里は一大ブームを迎えた。女性雑誌が八ヶ岳の牧場風景を紹介したことで、若い女性を中心に観光客が急増。清里は「高原の原宿」とも呼ばれるほど賑わい、タレントショップやカラオケハウス、ペンションなどが立ち並んだ。

この地域の観光の特徴は、高原を散策し、新鮮な牛乳を飲み、ソフトクリームを楽しむことだった。その中でも特に人気を博したのが清泉寮のソフトクリームである。年間100万個以上も売れ、清里の代名詞とも言える存在に。清泉寮ソフトクリームの名声は、現在も衰えることなく多くの人々に愛されている。


さて、このオーナーも若い頃、結婚したばかりの奥さんと一緒に清里を訪れ、初めて清泉寮ソフトクリームを口にした。その美味しさに感動し、以来そのファンになったのだ。現在では、息子夫婦や孫たちまでもが清泉寮ソフトクリームの虜になっているという。まさに筋金入りの清泉寮一族と言えるだろう。

そんなオーナーが最近考えているのは、清泉寮ソフトクリームの販売権利を手に入れることだ。彼は、美味しいものは高くても売れることを自身の舌で実感している。だからこそ、清泉寮ソフトクリームの販売に強い関心を抱いているのだ。

実はこのオーナー、ホール経営だけでなく、飲食業にも手を広げたことがある。たとえば、タピオカブームの時期にはタピオカドリンクの販売を試みた。しかし、ブームは一過性のものであり、長続きしないことを経験した。

それでも、ソフトクリームは違う。これはブームではなく、息の長い商品であり、廃れることはないと確信している。だからこそ、彼は自分が太鼓判を押す清泉寮ソフトクリームを自らの手で販売したいと考えるようになった。

ソフトクリームの販売を考える中で、オーナーは商品名も考案した。その名も「パールアイス」。パチンコ玉をイメージした名前であり、彼のホール経営との関連性を示している。

この時点で、清泉寮ソフトクリームの販売を諦めたのかと思いきや、オーナーは一度言い出すと暴走するタイプだ。業務用のアイスクリームメーカーまで購入し、自ら味の開発に勤しんでいる。

彼の熱意はこうだ。

「パチンコ経営だけでは限界がある。何か新しい仕掛けが必要だ。ホールでしか買えない清泉寮ソフトクリームに匹敵する味を開発できれば、必ず話題になるはずだ」

こうして、オーナーはソフトクリーム業界の風雲児を目指し、新たな挑戦に乗り出している。



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常連客が残した置き土産の顛末

年末、とあるホールの出来事。

70代後半の常連客が顔なじみの従業員にこう話しかけた。

「ここで打つのも今日が最後になった。長い間、色々ありがとう。これ皆で食べて」と言って、郷土の銘菓である五家宝(ごかぼう)の菓子箱を渡した。


これは蒸したもち米を伸ばし乾燥させて、水飴や砂糖で棒状に固め、きな粉を表面にまぶした郷愁を誘う素朴なお菓子だ。

なぜ、最後かというと、正月はこちらで迎えた後、息子さんが住む鹿児島へ引っ越すことになったようだ。

箱の中には100本ほどの五家宝が入っていた。さらに、箱の下には1万円札を忍ばせていた。

この1万円が旧札の聖徳太子のピン札だった。

聖徳太子の1万円札は昭和33年12月1日に発行され、昭和61年1月4日に発行が停止されている。若い従業員の中には初めて見る人もいるぐらいだった。

驚きはそれだけでなかった。記番号が777777だった。パチンコ業界的には非常に縁起のいい数字のゾロ目だった。

店長はすぐにオーナーに報告した。

オーナーは現物を見てピンときた。聖徳太子のピン札で7のゾロ目となれば絶対に価値があると踏んだ。

オーナーは聖徳太子の1万円札を100万円で買い取り、それは従業員で山分けすることになった。

後日、オーナーはいくらぐらいの価値があるのかを期待して鑑定に出した。

その結果分かったことはこれがニセ札だった。すぐに警察に届け出しなさいと警告された。

素人では見分けがつかないということは、巧妙なニセ札だということが分かる。

この聖徳太子のニセ札は、新紙幣の印刷が始まった2021年8月、都内のコンビニやドラッグストアなど130店舗で計142枚のニセ札が見つかっていた。すかしが入るなど精巧に作られていた。

この事件では20代のベトナム人3人が偽造通貨行使の疑いで逮捕された。

100万円で買い取ったオーナーだが、ニセ札だったとは従業員に伝えることはなかった。自分の戒めのためでもあるが、100万円は高い授業料となった。

では、ニセ札を使わなくとも所持することはどうなるか?

刑法150条では「行使の目的で」偽造通貨や紙幣などを取得した者を偽造通貨等取得罪として処罰するとしている。行使の目的とは、例えば代金の支払いに使用する目的など、偽造された通貨や紙幣を本物の通貨や紙幣として市場に流通させる目的のことを指す。

ニセ札とは知らずに偽造1万円札を受け取っている場合は、偽造通貨等取得罪として処罰されることはない。

また、ニセ札を所持しているだけで処罰する規定はないため、所持していても処罰されることはない。



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成り上がり者の天国と地獄

ある出版社が「成り上がり」をテーマに各業界の人物を探し出して取材をかけた。そこでまず、思い浮かんだのがバブル時代の頃だった。不動産会社や証券会社は大いに儲かった時期でもあった。

バブル――昭和世代には懐かしい響きだ。

バブル景気とは、昭和61年12月から平成3年2月頃までの4年ほどの期間を指す。一般の人たちが好景気を実感するのは、昭和63年頃から。株価の急上昇、不動産価格の上昇、また個人資産なども増大し、社会全体が今までにない好景気を実感した。この時期に社会人になった人たちがバブル世代とも言われている。

その取材の過程で巡り会ったのが元ホールオーナーのAさんだった。

元々はバブル期を謳歌した不動産会社の社員だった。不動産転がしで儲けたおカネを元手に副業で、アパート経営に乗り出し、20棟まで増やしたが、バブル崩壊前に売り逃げて独立する。この不動産業界時代に耐震偽装で社会問題を起こしたフューザーの小嶋社長とも知り合いになっている。

バブルが弾けた後に始めたのがホール経営だった。売りに出ていたホールを買うことからスタートするものの、全くのド素人。販社などから店長を紹介してもらい、店を回した。

最盛期には5店舗まで増やした。

ホール運営は店長から昇格した本部長に任せた。それは業界の先輩オーナーから「きれいごとではホール経営はできない。現場にも口出しすると店長が逃げる。多少のことは目を瞑れ」とアドバイスされたからだ。

平成が始まった頃は、バブル経済は崩壊したが、パチンコ業界は右肩上がりを続けていた。裏モノ、店長らの不正は当たり前の時代。店長は不正にも長けていないと務まらない、と言われた時代でもあった。

ホール運営は丸投げした。

5店舗で1日の売り上げは5000万円。粗利は1日で1100万円は叩き出していた。店を開けるだけで現金が転がり込んだ。ホール経営はチョロいと思った。

好事魔多し。ホール経営で儲かったおカネでAさんは投資に走った。これで大損を喰らうことになる。Aさんは自店のパチンコ客相手に闇金を始める。これが暴力団の闇金よりも金利が安かったために怒りを買い、暴力団とトラブルになる。

投資の失敗でホールを失い、暴力団から逃げるためにタイへ逃亡した。

日本へ帰って来たのは、ほとぼりも覚めた21世紀に入ってから。

で、現在のAさんは生活保護を受けている。

「投資さえしていなかったらホールを拡大して、芸能人と結婚していたかも知れない。月10万円の生活で一番みすぼらしいが、心は一番穏やか」とうそぶく。

天国と地獄を味わった成り上がりの話だった。



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