パチンコ日報

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メーカー営業のセカンドキャリア

大学卒業を控えてある遊技機メーカーの内定をもらった。行く気満々だった。勤務地は郡山。郡山なら自宅からでも通えると思ったら、これが福島県の郡山だった。未知の東北。内定は辞退するが、次に内定をもらった中堅遊技機メーカーに営業職で就職することになる。

あまりヒット機に恵まれなかったが入社して2~3年目の頃、驚異の22万台も売れた大ヒット機種の販売に関わることができた。史上初の機能を搭載したことがヒットの要因だった。そのおかげで業界2位に躍進する。ボーナスは年3回。1回のボーナスが200万円に達した。

カタログを持参してホールオーナーの下を訪ねて、機械の特性などを細かく説明しようとするとこんな具合だった。

「なんや、お前。そんな説明はどうでもええから、いつから入るんや! 80台持ってこい」

「400台持ってこい。その代わりヨソには入れるなよ」

上場メーカーの支店長は白いスーツに、白いエナメルのシューズを履いているような時代だった。

パチンコの営業はボロいと思った。潤沢なボーナスで懐は潤い、4号機全盛時のミリオンゴッドにも平気で突っ込んだ。負けても業界内でおカネが循環しているぐらいの意識だった。

出す機種、出す機種がヒットしたのは5年間ほどだった。

昔のように機械が売れなくなってきた。10年選手になっていたのに、会社から与えられたノルマを達成できなくなってきていた。

販売台数は何軒のホールに売ったかではなく、グロスでしか評価されなかった。上司からは「お前のノルマ分は明日何台用意したらいいんだ? やる気はあるのか!」と責められる日々だった。

「では200台でお願いします」

その200台は倉庫へ直行した。会社へは「完売しました」とウソの報告をせざるを得ないほど営業マンたちは追い込まれた。

売れなくてドキドキする期間は6~7年も続いた。精神的には限界に達していた。

「メーカーの営業マンはバット売りのようなもの。いきなりバッターボックスに立ってホームランなんか打てるわけがない。バットの売り方は分かっていても、ホームランの打ち方までは分からなかった」と振り返る。

ある日、得意先の専務に冗談半分に「ここで働かせてください」と頭を下げた。

「やる気があるのなら、活躍できる場はある。ウチの店長は数字ばかり。お前は色々な法人を見てきているから、数字や理論だけではないことを第三者の目で意見してくれたらいい」と第二の活躍の場を与えられることになった。

ホール転職はメーカーのセカンドキャリの一例だった。


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コメント[ コメント記入欄を表示 ]

  1. まさに因果応報では?
    まぁこの人だけの責任じゃないだろうけど
    善行してりゃ良い報い
    悪行してりゃ悪い報い
    ただそれだけのこと
    名無し  »このコメントに返信
  2. ピンバック: 名無し

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