「事務所に来い」といキメ台詞をその道のエキスパートであるやくざ屋さんが頻繁に使用していることは、映画やテレビドラマなどで知ってはいた。しかし実際に自分の耳に入ってきたその脅し文句はなぜか臨場感に欠けていた。あまりにも唐突であったがために僕は事態の深刻さを把握できないでいた。
独善的な理論をこの目の前にいる二人に対して延々と展開し、まさに有頂天の更なる絶頂域にいた僕の牙城は砂上の楼閣のようにさーっと控えめな音と共に崩れ去ったのである。
「世話役がうちの事務所に来いと言っておられる」
若いあんちゃんの声であった。二度目に聞いたその声は更に不安の渦へと巻き込んだ。彼の顔からもそしてその声からも感情というものが一切感じ取ることが出来ない。普通ならば相手を威嚇するために脅し文句の一つも出るのだろうが、その口調は事務的でいてなおかつ丁寧ではあった。しかしあんちゃんの無機質な声は僕を脅すのに充分に過ぎた。
やっと実感がわいてくる。僕はとんでもない方たちにとんでもないことを言ってしまった。自分の顔から血の気が引き始めるのがわかった。膝がカタカタと笑いだし、瞬きはその役割を忘れ瞳孔が開く。頬はひくひくと痙攣をし始め、血の気が失せた唇は紫に変色した。
何かをしゃべろうとする唇から出る音はなく、ただ魚が餌をもらおうとするそのしぐさのようにパクパクと閉じたり開いたりを繰り返す。喉が極度に渇き気管支の穴とのどちんこのあたりがひゅっとひっついた。
知らぬ間に僕の目からは涙が流れていた。怖くて、怖くて震えが止まらず涙も鼻水も止まらない。
「どうした、若いの。急に怖気ついてさっきの勢いはどこへ行った」
「あい」
はい、と答えたつもりだった。
「可哀そうに。まあ水でも飲みないね」
世話役は自分の部屋にでもいるような振る舞いで、水差しからコップにじゃぶじゃぶと水を注いだ。僕は勧められるままに八分目まで水の入ったコップを手にする。これから何をやらされるのかを考えると、頭の中に暗黒の宇宙空間が広がる。僕は渡されたコップと世話役の顔を交互に見やる。
「何だ足りないのか」
言うなり彼はさらに水を注ぎ足す。注ぎ足された水は、コップの容量を超えても留まるところを知らず、やがて僕の手を伝わりテーブルへ、さらにそこから僕のズボンにまで及んだ。震えが激震に変わる。
「すいません、すいません。どうか勘弁して下さい。もうしませんから」
こんな時に恥があるわけでもなく外聞なんてさらさらない。今はただこの恐怖から解放されたいという一心で僕はコップを持ったまま世話役に懇願した。
「いいか兄ちゃん。やくざもんはいつでも自分の秤で物事の善し悪しを決めるのよ。世間様がいう常識ってえもんは俺らには通用しねえ。お天道様がクロだって言っても俺がシロと決めりゃあシロだっつうことよ。それがやくざもんの生き様だいね。そこんとこ、わかってるぅん?」
この地の方言で「しているのか?」「やっているのか?」という疑問形を「してるぅん?」「やってるぅん?」という具合に鼻から声を抜いて語尾をるぅんと 上げる。日常の会話であれば調子の外れたこの言葉につい笑ってしまうのだが、今日の世話役の「わかってるぅん」は逆に怖い。僕の恐怖心はそんなものが実際にあるどうかは知らないが、最高潮のそのさらなる上に達した。
「ひいいい!わわわ、わかってます、はい、もうほんとうに」
本当は何が何だかわかっていないのである。とにかく今は抵抗だけはすまいと観念した。
事の善し悪しはその全ての原因が己にあると誰かが言っていた。正しいことを主張した僕は間違っておらず、しかしその方法に誤りがあった。しかしこの世話役は僕の主張も方法も自分の秤において間違っていると言う。
僕は恐怖に慄きながらも自分のどこがいけなかったのか、何を間違ったのかを今一度必死に考える ことにした。そこに少しでも情状酌量の余地があれば助かる見込みがないわけでもないからだ。
きっとあるはずだ、このお爺さんにも情っていうものがあるのだろうからそこを糸口に出来ないものか、と考え始めた矢先のことだった。
「おい、若いの顔を上げろ。△□*?@・・・!」
世話役はいきなり僕に顔を近づけて何やらわけのわからない言葉を口にし始めた。
うなだれていた自分の頭を持ちあげ世話役の顔を見上げた瞬間、僕は驚きのあまり椅子ごと後ろにのけ反り、とうとう倒れこんでしまった。
つづく
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