パチンコ日報

ニュースにならないニュースの宝庫 

メンテされなくなった床が示す業界衰退のサイン

ホールで店長をやっていた。オーナーにその能力を見込まれ役員候補にもなるほど将来を嘱望されていた。

30代前半にして年収1500万円。数字を作る手腕はもちろん、機械にも強かった。パチンコ台をバラバラに分解しては、部品を一から組み上げて元通りにするのが趣味の分解マニアだった。当然、機械の修理もお手の物だった。

しかし、ある日、突然辞表を出した。理由は「家業を継ぐため」だったが、詳細は語らなかった。父親の会社は電設工事業。公共事業を中心に、ホールの電気設備工事も多く手がけていた。

電設工事会社を継いで30年以上が経過した。今やホールの新築案件はほとんどない。M&Aによって看板が変わる名ばかりの新店ばかりだ。新店が建たなければ、電設工事も当然減る。ホールを取り巻く産業構造そのものが、音を立てて崩れていることを、彼は身をもって痛感した。

その一方で、別のホールでは、現場の店長(54歳)が、別の角度から同じ現実を感じ取っていた。

その店舗の床は昔ながらの木タイルを採用している。昭和のホールでは定番だったが、今ではほとんど見かけない。定期的にポリシャーで磨きをかけ、ツヤを保つのがこの店の習慣だった。しかし最近、どれだけ磨いても光沢が戻らなくなっていた。

「そろそろ表面の削り直しの時期です」とオーナーに進言した店長に返ってきた言葉は、冷たかった。

「もうやらなくていい」

その瞬間、店長は悟った。店は“閉店予備軍”に入ったのだと。床を削り直すにはそれなりの費用がかかる。しかし、その金額を惜しむということは、ホールに見切りをつけているということだ。

54歳。同業他社への転職も容易ではない。タクシー業界への転職も視野に入っている。

こうした「手を抜かれたメンテナンス」は、個々の店舗だけでなく、業界全体の縮小を象徴している。

新規出店が止まり、設備投資が減り、メンテナンスまでもが後回しにされる。ホールも関連業者も連鎖的に疲弊していく。表面上は変わらず営業していても、その床のツヤは、すでに失われつつある。

電設工事が減り、メンテナンスの手が止まり、そして客の足も遠のく。業界の衰退は、決して数字だけでは見えない。足元の「床」が、静かに物語っていた。



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パチンコ再生の舞台は日本ではなくアメリカだった!?

長年にわたってパチンコの開発に携わってきたベテランプログラマーがいる。協力会社という立場から複数メーカーの仕事を手掛け、業界の技術進化を肌で感じてきた人物だ。すでに第一線を退き、悠々自適の日々を過ごしていたが、思わぬところから一本のオファーが舞い込んだ。依頼主アメリカのIT系ベンチャー企業だった。

その内容は驚くべきものだった。

「アメリカでパチンコを作りたい。日本の特許にも国際特許にも抵触しない、新しいパチンコを開発したい。その責任者として力を貸してほしい」

当初、ベンチャー企業は日本の遊技機メーカーと協業する道も模索したようだが、最終的には「ゼロから創る」という独自路線を選んだ。アメリカ市場に日本式パチンコをそのまま持ち込むのではなく、新しい概念の機種を作ろうというわけだ。

ベンチャー企業の鼻息は荒い。

「アメリカでパチンコを展開すれば、間違いなく大きなビジネスになる。州ごとに法律や許認可のハードルは異なるが、全米を制覇できれば5万店舗は狙える」

そして何より、ベテランプログラマーの心を動かしたのは提示された破格の条件だった。

提示された年俸は4億円。

アメリカの物価高を考えれば日本円換算で1億5000万円ほどの感覚かもしれないが、それでも異例の待遇である。

この金額は単なる年俸ではなく、「アメリカで新たなパチンコ文化を作る」ことへの期待料であり、本気度の証でもあった。

招待もファーストクラス。年内中に現地でのプロジェクト説明が行われる予定だ。

アメリカでは、実は日本発のレジャー文化がそれなりに受け入れられている。典型例がラウンドワンだ。2010年にロサンゼルスで1号店をオープンして以降、現在はカリフォルニアを中心に全米57店舗まで拡大している。スポッチャやアミューズメント体験がアメリカでも市民権を得たことは、「パチンコがアメリカ進出する土壌がある」ことを示している。

日本で衰退し続けるパチンコが、アメリカで新たな息吹を得る――そんな逆転劇が現実になる可能性が出てきた。日本では遊技人口の減少によって苦境が続くが、アメリカではむしろ「新しい遊技体験」として受け入れられる余地がある。

かつて世界でも稀な娯楽文化として栄えた日本独自のパチンコが、海を渡って第二の人生を歩むのか…。

ベテランプログラマーの挑戦を通じて、停滞する日本のパチンコ業界にも新たなヒントが生まれるかもしれない。日本で忘れ去られつつある遊技が、アメリカの地で再び花を咲かせるのか。その行方を見守りたい。


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「もっと出して」ではなかった。地方ホールが結婚式で知った常連客の本音

地方の低貸し中心のホールでは、単なる遊技場を超えた役割を担っていることがある。特に高齢化が進む地域では、ホールが地域コミュニティの場として機能しているケースも珍しくない。

とある地方ホールで、そんなことを改めて実感する出来事があった。

常連客同士が結婚することになったのだ。

新郎は70代、新婦は50代。お互い再婚同士。ホールで顔を合わせるうちに親しくなり、人生を共に歩むことになった。

会場となったのは地元の公民館。決して派手ではないが、地域に根差した温かい結婚式だった。

出会いのきっかけとなったホールを代表して、店長にも招待状が届いた。

オーナーに報告すると返ってきた言葉は意外なほど気前がよかった。

「会社の経費で祝儀を出す。ちゃんと出席してこい」

利益や売り上げだけでは測れない価値がある。オーナーもそれを理解していた。

当日は新婦の娘さん(元AKB)のほか、ホールの常連客たち35人が2人の門出を祝った。

会費5000円制だった。

単なる結婚式ではない。ホールのコミュニティがそのまま集まったような空間だった。

新郎は地元では知られた存在でもあった。

大規模農家を経営し、耕作放棄地を買い取って規模を拡大。従業員も雇っている。

ホールでも人気者で、「あの人の祝いなら行く」と35人もの常連客が集まった。

宴席では酒も入り、自然と会話が弾んだ。

そこで店長は、せっかくの機会とばかりに常連客に聞いて回った。

「ホールに望むことはありますか」

本音が聞ける場だ。

当然、返ってくる答えは予想していた。
「もっと出してほしい」

パチンコ店なら真っ先に出る要望だと思っていた。
だが、違った。

「3人掛けのソファー、あれ使いにくい」

ホールには休憩スペースに3人掛けソファーが置かれていた。

しかし両端に人が座ると、真ん中には座りづらい。

「イスとテーブルに変えてほしい」

なるほど、と思った。

続いてこんな声も出た。

「トイレットペーパーは二重じゃない方がいい」
さらに「ウォシュレットは前の人が使った後が気になる」

衛生面への感覚は人それぞれだ。

簡単に解決できない問題もある。

そして最後に出たのが、意外なほど現実的な要望だった。

「駐輪場に屋根を付けてほしい」

雨の日、自転車のサドルが濡れる。

高齢客が多い地域では、自転車は重要な移動手段だ。

店長はさっそく見積もりを取った。

費用は80万円。
決して安くはない。
しかし、オーナーは即決した。
「やろう」

理由は明確だった。
こうした細かな不満を一つひとつ改善することが、結果として客離れを防ぐことにつながる。

パチンコ業界はどうしても「出玉」「機械」「イベント」に目が向きがちだ。

しかし、地域密着型のホールほど、実は別のところに勝負どころがある。

それが座りやすい椅子だったり、濡れない駐輪場だったり、居心地のいい空間だったりする。

そして人とのつながりだ。

今回の結婚式で店長が知ったのは、客は必ずしも「もっと勝たせろ」と言っているわけではない、という現実だった。

ホールが地域の居場所になる。

その積み重ねこそが、高齢化社会を生き残るヒントなのかも知れない。



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ぱちんこ回想記 第12玉 人の目人の目周囲の目

こんばんは。抗がん剤治療も半年が過ぎました。治療中の食事制限が、好き勝手食べて生きてきた私にとって一番の地獄で、大好きな刺身や寿司、生肉や生卵、発酵食品。その他もろもろ禁止されていたのですが、先日納豆とヨーグルトを食べていいと許可が出ました。

許可が出て半年ぶりに納豆を食べたのですが、納豆を食べて涙が出たのは人生初でした。
食べれる喜びを一生忘れずに、毎日感謝の気持ちで生きようと思いました。
この歳になって病気してから気づくのは遅いのでしょうが、気づけないままよりは
気づけてよかった。そう思います。


中学1年の夏休みが終わった。結局、夏休み中に学校からの呼び出しはなく、本人もホッとしていた矢先の話。夏休みが終わり登校初日、学校に行きホームルームが終わると担任から生徒相談室へ来いとの事。いよいよバレたかと覚悟を決める。

クソ狭い生徒相談室に入ると教頭先生と生徒指導の先生が待っていた。教頭先生は私の父の恩師でもある。生徒指導の先生が開口一番にこう言った。

「ある生徒の親から電話があった。農道で車を運転していた」と。

何故か笑顔。私はその笑顔ですぐに確信した。その通報は信じていない事に。

「車をですか? 運転なんかした事ないですよ~ははは」

優しい教頭先生は「さすがに車を運転する訳がない。何かの見間違えですね」と笑顔。

スーパーラッキー! 全然疑いもない。押し通せる。そしてこの話から脱出できると
思っていたその時…。

持ち物検査が始まった。学生ズボンのポケットを触られる。しかし何も出ては来ない。ラッキーな事に、タバコはバックに入れてあったので助かった。と思いきや、学生ズボンを脱げと言われる。

「脱いだらパンツなんですけど…」

脱がされて何されるのかと思いきや、ズボンを逆さまにして何か落ちて来るのではないかと予想した生徒指導の先生。大当たりでした。タバコの葉っぱが少しだけパラパラと。

「お前いつからタバコ吸ってるんだ?」

これは先輩から譲り受けたボンタンだから、このタバコの葉っぱは俺じゃない。

俺は吸っていないと反論する。

「同じクラスの生徒が休み時間に隠れてタバコ吸っていると言ってる。正直に話せ」

それでもシラを切り続ける。俺は吸っていないと。すると今度は先生に向かって息を吐けだの、何だのと注文をつけられる。しかしこの日、朝起きてから偶然にもタバコを吸っていなかったのを覚えている。息はタバコ臭くないハズ。それでセーフ?だった。

「これから毎日のように検査するからな」

なんとか生徒相談室から出れてホッとしていたのだが、ここから周囲の目は異常なくらいにまで変わった。私を見る目が今までと全く違う。2歩も3歩も引いたような視線。私は孤立した。同じクラスの人間だけだはない。教師のほとんどもだ。

「タバコ吸っていたのを話したのは誰だろう?」

1人ずつ思い当たる人に聞いた。お前か? お前か? お前か?

「はい私です!」と言う人は勿論おらず、結局今度は放課後に生徒相談室へ呼ばれる。

「クラスの生徒からタバコ吸ってたことを教師に言ったのはお前だろうと言われた。怖かった。何とかしてくれと先生の所に来たぞ」

くだらない事でいちいち呼ばれ、ただ聞いただけでこう言われて、「一体私をどうしたいのですか?」と聞いた。

「用事がある以外他の生徒と話すな」と返答が返ってきた。

「分かりました。明日から、そうしましょう」

私は言われた通りにする事にした。

翌日から私は徹底した。一切誰とも話さず、ひたすら視線だけキョロキョロと動かす。
そしたらまた呼び出しされる。今度はこうだ。

「誰とも話さないで機嫌悪そうに教室にいられるのがとても不気味です」と言われたとか。

だから普通にしてろと。

「用事がある以外話すなと言ったのは先生あなたですよ」

そう言えば顔面にビンタが飛んでくる。口答えするなと。言われた通りにしろと。

もうどうでもよくなった。何を言われようが、どんな目で見られようが構わない。
お好きにどうぞ。意外と放課後の部活の野球の時に先輩との会話がストレス解消にもなった。ちょこちょこ部活に行くようになり、守備練習時の声を出す事が凄くスッキリする。
今思い出せば野球の練習がなければ落ち着けなかったと思う。

遅くまで部活をして暗くなり、帰宅する途中に駅前の「パチンコチャンス」のネオン看板が寂しそうにキラキラ光っていた。外から中を覗くとお客さんは2人くらいだったか。
店内は閑散としていた。

「パチンコチャンスも俺と一緒で人気ねーな(笑)」


学校に行けば凄い視線を感じ、話せば話すな。話さなければ話せ。

何か言えば手が飛んでくる。学校に行くのも段々と嫌になる。朝家を出て学校に行く途中に駅に寄ると電車に乗り遅れた高校生の先輩がいた。そのまま駅で話したりしてるうちに時間はお昼手前。給食だけ食べに学校に行く日が続いた。部活も行ったり行かなかったりで、よく考えれば私の心のよりどころは「ぱちんこ」しかなかった。

この話を面白おかしく書いてる訳でもない。カッコつけて書こうとしてる訳でもない。

ぱちんこが友達。ぱちんこを打っている瞬間が一番楽しく、時間を忘れて夢中になれる。
生まれて初めて自分がのめり込んだのがぱちんこ。まだ中学1年生だったが、ぱちんこをする事にあたっての目標はD-51と会う事と、いろんな台を触って歩く事を再確認。

もうこれだけを強く目標に持って、学生生活を進む事に決めた。

つづく



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夢を叶えた医師が家業を継いだ日。空の記憶と新幹線の決断

現在、ホール経営から完全に撤退し、飲食業と不動産業を主軸に事業転換した企業がある。その会社の2代目は、少し変わった経歴を持つ人物だ。彼はもともと、家業とはまったく別の道――医師としての人生を歩んできた。

医師を目指す原点は、小学校3年生の春休みにさかのぼる。家族旅行でハワイへ向かう飛行機の機内で、思いもよらぬ出来事が起きた。成田空港を離陸し、太平洋上空を順調に飛行していた最中、客室内で急病人が出たのだ。

機内は一瞬ざわつき、やがてCAによるアナウンスが流れた。

「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか」

その声に応えるように、しばらくして一人の男性が名乗り出た。彼は医師だった。

医師は慌てることもなく、落ち着いた様子で急病人のもとへ向かい、テキパキと応急処置を施した。その姿を座席から見つめていた少年は、言葉にできないほどの衝撃を受けた。

子供心に「こんなにかっこいい大人がいるのか」と胸を打たれたのだ。この瞬間、「医者になって人を助けたい」という思いが、彼の心に深く刻み込まれた。

その思いは一過性の憧れでは終わらなかった。初志貫徹で勉強に励み、医学部へ進学。晴れて医師となり、医療の現場で人命と向き合う日々を送ることになる。

当時、実家のホール経営はまだ勢いがあり、十分に利益を生んでいた時代だった。しかし、親から「家業を継げ」と強要されることは一切なかった。彼は医師としての道を尊重され、仕事に没頭することができた。

医師になって19年が経過した頃、再び運命的な場面に遭遇する。

東京から新大阪へ向かう新幹線の車中だった。突然、車内放送が流れ、急病人が発生したため医師を探しているという。

その瞬間、彼は迷わなかった。自ら名乗り出て、急病人のもとへ駆け付け、冷静に応急処置を行った。無事に対応を終えた時、胸の奥から込み上げてくるものがあった。

子供の頃、飛行機の中で見たあの光景。医師を志すきっかけとなった、あの場面に、今度は自分自身が立っている。長年抱いてきた「機内で人を助けたい」という夢を、まさに体現できた瞬間だった。

この強烈な達成感が、人生の次の決断を後押しすることになる。

ちょうどその頃、会社には後継者がいないという現実もあった。悩んだ末、彼は医師という職業に区切りをつけ、家業を継ぐ決断を下す。

もっとも、もし本業が今もホール経営一本だったとしたら、同じ決断をしたかどうかは分からないという。

時代の変化と事業転換、そして夢だった機内や車中での「人助け」の達成感が重なり合った末に導き出された選択だった。



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