パチンコ日報

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ダイエーが経営していたパンドラへ出向した人の回想録

総合スーパーのダイエーがパチンコホール「パンドラ」を経営していた時代に話は遡る。ダイエーがパチンコ業界に進出するきっかけは、94年に合併した忠実屋がホールを1店舗経営していたことによるもの。

ホール経営の中身を調べてみるとかなり優良なことから、95年からダイエー自身が既存ホールを買収したり、不採算店舗をホールに改築して出店攻勢をかける。

96年、大阪・難波にオープンしたダイエーグループのオリエンタルホテルの地下は、1000台規模の大型ホールになる。これだけの広い地下フロアで採算の合う商売と言えばパチンコ以外に考えられなかった。

しかし、中内功会長は「われわれがやるには遅すぎる」とホール経営には消極的だったが、パンドラは「100店舗構想」を掲げるほど鼻息は荒かった。

ダイエー本社からパンドラへ転籍したAさんは、パチンコ好きだったので自らが希望してパチンコ部門への配属となった。

それまでスーパー部門で1円単位の商売をしていたAさんは、改めてホールの売り上げ、粗利額の大きさに驚きを隠しきれなかった。当時は300台クラスのホールでも日売りが1000万円~1500万円。売り上げだけでなく粗利が1日に300~400万円もあることに腰を抜かした。

Aさん同様スーパーから出向してきた店長たちも、ホール経営のダイナミックさに魅了されていった。だからすぐに100店舗構想が発表されたわけだ。Aさんも100人の店長の一人になることを夢見て働いた。

実際、ダイエーの経営がおかしくなって、2006年、パンドラを長野のアメニティーズに売却するまでは、5年間で16店舗余りを出店している。

パンドラを売却後は、出向していた社員はダイエー本体に戻ったが、ほぼ全員が残っていない、という。

「パチンコを経験すると金額の小さい地道な商売ができなくなりました。金銭感覚が狂うというかどうしても単価の高い商売をやりたくなります。だから不動産業界へ転職した人も多い。マンションを一棟売れば何百万円も歩合が付く。だからパンドラへ出向した人は人生が変わりました」

そういうAさんは、ダイエーがイオングループになる前にセブンアンドアイホールディングスへ転職。スーパー部門で契約社員として働いている。

「日本一の小売業でプロ野球球団も持っていたダイエーが潰れるなんて誰も思っていませんでした。倒産を直に見てきましたが、大きいところにいれば、安心できる時代でもない。安心な会社なんてないということです」

会社の規模よりも中身が大事。パンドラへ出向した人たちは金銭感覚が麻痺したというが、パチンコ業界しか経験していないと、やはり小さなコツコツとした商売はできない?



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